3月30日(日) ルカ15章11-32節
「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ルカによる福音書15章32節
32節で、父親は兄息子に対して弟息子のことを、「わたしの息子は」と所有を示す言葉で語っているのではなく、「お前のあの弟は、死んでいたのに生き返った」と、兄弟としての関係を強調して語っています。これは、家族の一員、失われた兄弟が戻ってきたことへの喜びの表現です。
確かに、兄の冷静な論理と計算によれば、父の喜びは常軌を逸しているように見えるかもしれません。そして、その喜びをすぐに行動に移してしまうのは、世間一般の常識からすれば理解しがたい行為です。裾をからげて人目も気にせずに走り寄ったり、抱きしめて口づけしたり、すぐに祝宴を開いてしまったり…。けれども、それが私たち罪人を受け入れる神の福音の、人間的な尺度を超えた愛の表れであると、聖書ははっきりと示しているのです。
弟の罪は、償おうとしても償いきれるものではありません。精一杯謝罪したとしても、犯した罪の大きさを前にすれば、到底償いきれないという思いに苛まれるでしょう。それは私たちも同じです。父は、そのような私たちの状況を百も承知で走り寄り、抱きとめてくださるのです。何度も口づけしてくださるのです。その神の愛を味わうにつれ、私たちの悔い改めも深まっていくのです。
【祈り】
あなたの、人間には愚かに見えるほどの愛の中での大きな喜びを共に喜ぶ者とさせてください。