第105問 主の祈り、第五の祈願
問: 第五の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という)第五の祈願で私たちが祈る事は、神が、キリストのゆえに、私たちのあらゆる罪を一方的にゆるしてくださるように、ということです。私たちは、神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです。
人間の基本的必要を求める三つの祈願(第四祈願〜第六祈願)の内の一つは、罪の赦しを求める祈りです。どんなに物質的に豊かでも、罪の赦しなしには、人は悲惨なのです。
(1) その人は、客観的事実として今、神の怒りの下にあり、死後に滅びに至ります。
(2) その人は、良心の真の平安を得られません。自責の心や空しい自己弁護から解放され、欠けのあるままの自分が温かく肯定されていることを味わい知るためには、罪の赦しが必要です。
赦しの恵みは次のようにして与えられます。
(1) 神の一方的な(無代価の)赦し:
対社会的には人は罪の償いをできますが、神に対して罪を償い罪責から自由になることは誰もできません。神の一方的な赦しこそ、私たちが真に罪責感から解放される唯一の土台です。
(2) キリストのゆえの赦し:
この神の一方的な赦しは、キリストの十字架の償いに基づいています。十字架によって、私たちは神の一方的赦しを確信することができるのです。
(3) 私たちによる赦し:
「我らが赦すごとく」との言葉は、根拠ではなく類比の言葉です。罪赦されて生きる信徒は他人を赦す心を与えられ、罪の赦しが人にさえ可能である事を味わいます。そこで、無限の愛の神様にはなおさら罪の赦しが可能であることを確信して、この祈願を捧げるのです。ただし、主の祈りに続くマタイ6:14〜15によれば、私たちが人を赦す心を持たなければ、私たちは赦しの恵みにとどまることはできません。キリストの十字架以外に赦しの根拠はありませんが、赦された恵みに根ざす赦しの心を全く欠く人は、自らの救い自体を確信すべきでないのです。
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