聖書を開こう

自由と配慮の間で(マタイによる福音書17:24-27)

放送日
2025年8月28日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:自由と配慮の間で(マタイによる福音書17:24-27)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たちが日々生活している中で、「これは自分には自由にする権利がある。でも、相手のことを考えるとどうすべきだろうか」と悩む場面は少なくありません。例えば、電車の中で通話することは技術的には可能ですし、法律で厳しく禁止されているわけではありませんが、周りの人の迷惑を考えれば控えるべきです。あるいは、自分のお金をどう使うかは基本的に自由ですが、家族や隣人のことを考えるなら、その自由を自制する必要も出てきます。まさに「自由と配慮の間で」私たちは生きています。

 きょう取り上げる聖書の箇所も、このテーマと深く関わる場面です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書17章24節~27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 この箇所には、少し不思議に感じる点がいくつもあります。まず、「神殿税」とは何でしょうか。これはエルサレム神殿の維持のために支払われた税で、ユダヤの成人男子に課せられていました。その根拠のひとつが、出エジプト記30章12節です。

 「あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。」

 つまり、イスラエルの民が人口調査を受ける際、一人ひとりが「命の贖い」として「銀半シェケル」を主に納めるようにと命じられています。これは、神の前で自分の命を守っていただく代償として支払うもの、命の贖いのしるしでした。その習慣が後に、神殿を維持するための税へと発展していきました。ですから、神殿税は単なる建物の修繕費や運営費ではなく、「命の代償を表すもの」という深い意味を持っていました。

 ところで、この直前の箇所でイエスは、ご自分がやがて人々に引き渡され、十字架にかかり、死に打ち勝って復活されることを語られていました。命の代償を支払う神殿税の話がその直後に出てくるのは偶然ではありません。イエス・キリストこそが、すべての人の罪のために命の代価を支払われるお方だからです。神殿税が象徴していた「贖いのしるし」は、イエスの十字架において真実となります。きょうの個所を深く理解するためには、そうした背景を理解しておくことが大切です。

 さて、きょうの場面はガリラヤ湖の湖畔にあるカファルナウムでの出来事です。

 神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と尋ねます。イエスの時代にもユダヤ人の成人男子にはを納めることが義務でしたから、こんな問題をイエスに直接尋ねないで、わざわざ弟子たちに尋ねているのも不思議です。

 イエスが常識的な宗教的義務に従わない可能性があると最初から疑っているようにも聞こえます。ペトロにそのような質問を投げかけたのは、弟子たちの心を揺さぶるためだったのかもしれません。ペトロは自分の先生であるイエスに直接聞くまでもなく「納めます」と即答します。

 では、イエスは神殿税をどう受け止められたのでしょうか。イエスは「地上の王は自分の子供から税を取るか」とペトロに尋ねます。ペトロは当然「いいえ、他の人々からです」と答えます。そこでイエスは、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われます。この部分は新共同訳では「納めなくてよい」と訳されていますが、原文のギリシア語では「子供たちは自由だ」という表現です。つまり、神殿の本当の主人である神の御子イエスは、その税から当然自由です。イエスに従う者もまた、神の子とされているのですから、本来ならばその義務から自由にされているはずです。

 けれども、イエスはその自由を振りかざすことはなさいませんでした。「彼らをつまずかせないようにしよう」とおっしゃって、あえて納めることを選ばれます。しかもその方法は奇跡的です。ペトロを湖に行かせ、魚の口から銀貨を取り出させて納めるという方法をとられました。これは単なる奇跡話ではなく、イエスが「神殿税に縛られてはいない」ことを示しつつ、同時に「人々をつまずかせないためにあえて神殿税を納められた」という二重の意味を持っています。

 ここには重要な教えがあります。私たちはキリストにあって「自由」にされています。律法や義務に縛られて神の愛を得るのではなく、すでにキリストの十字架によって救いは成し遂げられているからです。ですから、私たちは神の子として「自由」です。しかし、その自由を自己中心に用いるなら、かえって他の人をつまずかせたり、信仰の妨げになってしまうことがあります。だからこそ、イエスは「自由と配慮の間で」生きることを私たちに示されました(ガラテヤ5:13参照)。

 現代の私たちの生活にも、この原則は深く関わっています。キリストにある自由の中で、私たちはどのように生きるかを選べます。しかし、自由を理由に誰かを躓かせるなら、人間としての信頼を失うことになります。例えば、食事や習慣の中で「これは信仰において自由だ」と考えられることでも、他の人にとってはつまずきになる場合があります。パウロもローマの信徒への手紙14章16節で「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」と語っています。自由は私たちに与えられた大きな恵みですが、それを用いるときには「配慮」が伴わなければなりません。

 また、もうひとつ注目したいのは、イエスがご自分の死と復活を語られた直後にこの出来事があることです。神殿税は命の贖いを表していましたが、やがてイエスご自身が十字架で本物の贖いを果たされます。そのとき、神殿も、神殿税も、本来の役割を終えます。ですからイエスは、根本的にはこの制度からは自由なお方でした。それでもなお、イエスは人々をつまずかせないために従われました。その姿に、神の子である自由と、隣人を愛する配慮の模範が示されています。

 私たちも人生の中でしばしば「これは自分には自由だ。しかし、どう生きるべきか」と問われる場面に直面します。そこで大切なのは、「自分の自由を主張すること」ではなく、「隣人への愛と配慮をもって自由を用いること」です。イエスご自身がその道を歩まれたからです。私たちもその後に従う者として、自由を愛によって働かせる者となりたいと思います。

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