山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:沈黙の中で語られる苦難の予告(マタイによる福音書17:9-13)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちの人生には、あえて言葉にしないほうがよいと感じる出来事があります。心の奥深くにしまっておきたい喜びや悲しみ、他の人に軽々しく話すには重すぎる経験。けれども、不思議なことに、そうした沈黙の中にこそ、私たちの心を深く動かす真実が宿っていることがあります。
きょう取り上げる聖書の場面でも、弟子たちはある特別な体験をした直後に「このことを人に話してはならない」とイエスから命じられます。しかも、それは単に秘密を守るためではなく、もっと深い意味を持つ沈黙でした。そしてその沈黙の中で、イエスは弟子たちに自分がこれから受ける苦難について語られます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書17章9節~13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
今お読みした箇所は、ちょうど「イエスの変貌」と呼ばれる出来事の直後のことです。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、イエスに連れられて高い山に登りました。そこでこの三人は、イエスの姿が輝き、モーセとエリヤが現れて語り合うという、まさに天の栄光を垣間見る体験をしました。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の声も響きました。
弟子たちにとって、それは忘れられない、そしてできるならいつまでもそこに留まりたいと思うような瞬間だったでしょう。しかし、イエスは山を降りていきます。栄光の頂から、日常と現実が待つ地上へと。そこには病や悪霊の問題、そしてやがて訪れる十字架の道が続いています。
この文脈を踏まえると、9節の「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」という命令は、とても重い意味を持っています。弟子たちが見た栄光は、やがて訪れる十字架の苦難を経て初めて正しく理解できるからです。もし復活前にこの出来事を人に話せば、人々は十字架抜きの栄光という間違ったメシア像を抱いてしまうでしょう。
弟子たちに課された沈黙の命令は、聖書の中では何度も見られます。マルコ福音書では「メシアの秘密」とも呼ばれるテーマで、イエスはしばしばご自分がなさった奇跡やご自分の正体を人々に広めないように命じています。その理由は、群衆が政治的解放者としてのメシア像に固執し、神の救いの本質を誤解してしまう危険があったからです。
この時代のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。人々はダビデ王のような力強い王が現れて敵を打ち破ることを期待していました。しかしイエスがもたらす救いは、武力や政治による勝利ではなく、罪と死からの解放です。その道は栄光だけではなく、屈辱と苦しみを通らなければなりません。
山上の変貌の出来事は確かに栄光のしるしでしたが、それだけを切り取れば、十字架を拒む心を強めてしまいます。だからこそ、イエスは復活まで沈黙をお命じになったのです。
沈黙の命令を受けた弟子たちは、下山しながら一つの疑問を口にします。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」(10節)
マラキ書4章には、主の大いなる恐るべき日が来る前にエリヤが遣わされると記されています。多くの人々は、終末の時、天からエリヤが現れて救いの時代を告げると信じていました。山上でイエスとモーセと並んでいたエリヤを見た弟子たちにとって、この預言は現実味を帯びた疑問でした。
イエスは、「確かにエリヤが来て、すべてを元通りにする」と認めながらも、「しかし、エリヤはすでに来た」と言われます。それは洗礼者ヨハネを指していました。彼はエリヤの霊と力をもって人々に悔い改めを呼びかけましたが、人々は彼を認めず、ついにはヘロデによって殺されました。
ここで弟子たちは知らされました。エリヤにしたように、人の子もまた苦しみを受けるのだ、と(12節)。つまり、メシアの道は旧約の預言者たちが歩んだ道と同じく、拒絶と迫害の道にほかなりません。
この箇所全体を通して見えてくるのは、栄光と苦難の順序です。人間の感覚では、まず栄光があり、その結果として苦難が取り除かれると考えがちです。しかし、聖書が示す救いの道はその逆です。苦難を通ってこそ、真の栄光に至る道です。
弟子たちは山上での体験に心を奪われ、そこに留まりたいと願いました。しかしイエスは山を降り、エルサレムに向かいます。そこには裏切り、裁判、鞭打ち、十字架という現実が待っています。それでもイエスは、その道を歩むことでしか成し遂げられない救いがあることを知っておられました。
沈黙は、十字架の意味が明らかになるまでの大切な時間です。それは理解のための準備期間であり、神の計画の全体像が見えるまでの静かな待ち時間でもあります。
現代を生きる私たちにも、この「沈黙の命令」は大切な示唆を与えます。私たちは情報化社会の中で、感じたことや体験したことをすぐに共有することに慣れています。しかし、霊的な事柄には、急いで語るよりも、まず心に深く留め、祈りながら熟成させる時間が必要です。
また、私たちもまた、十字架抜きの栄光を求める誘惑にさらされています。成功や繁栄、癒しや奇跡といった側面だけを強調する信仰は、苦しむキリストに従う本質を見失いかねません。主の道は、苦難を通って栄光に至る道です。その順序を変えてしまうと、信仰は浅く脆いものになってしまいます。
そしてもう一つ、この箇所は「すでに来たエリヤ」のように、神が送ってくださった助けや警告を見逃さないことの大切さを教えます。人々は洗礼者ヨハネを預言者として認めず、結果として彼のメッセージを拒みました。私たちも、神がすでに与えてくださっている導きや警告を、偏った期待や先入観のために見過ごしてはいないでしょうか。
きょうの個所は、山上の栄光の体験から下る途中で交わされた、静かでしかし重い会話を記録しています。それは沈黙の中で語られた苦難の予告でした。
イエスは弟子たちに、まだ語ってはならないと命じます。それは、人間的な栄光への期待を抑え、十字架の意味が明らかになるときを待つためです。そして、エリヤの再来についての問いを通して、自らの苦難の道を重ね合わせます。
私たちもまた、この沈黙の意味を心に刻みたいと思います。すぐに語るよりも、まず祈り、十字架の意味を深く味わい、主が復活された後の完全な視点から物事を見るように導かれたいと願います。
主の道は、苦難を通って栄光に至ります。私たちの人生の中でも、試練や沈黙の時は避けられません。しかし、その中でこそ神の真実が静かに、しかし確かに語られているのです。