聖書を開こう

心配するイエス、満たされる群衆(マタイによる福音書15:32-39)

放送日
2025年6月26日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:心配するイエス、満たされる群衆(マタイによる福音書15:32-39)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 お腹が空いた経験は誰にでもあると思います。けれども、食べるものがない。目の前に食べ物がない。このまま何も食べられなければ、倒れてしまうかもしれない。そんな思いをしたことがある方は、そう多くはないかもしれません。

 しかし、今の日本、6人に1人、十分に食べることができない子供がいるという話も耳にします。子ども食堂があちこちに開設されるニュースを耳にすると、そのようなニードが現実に私たちの社会に増えつつあることを実感します。

 その一方でフードロスの問題や、食べ過ぎや栄養の偏り、健康への影響を心配するほど、食べ物に囲まれた暮らしをしている現実もあります。

 世界全体を見渡した時に格差があまりにも広がっているようにも感じます。戦争や災害、貧困に苦しむ地域の現実を思えば、きょう食べるものがないという不安は、今も多くの人々にとって現実の問題です。

 きょうご一緒に味わう聖書の物語には、まさに「空腹」に直面していた人々と、その人々のために心を痛められたイエス・キリストの姿が描かれています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書15章32節~39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの篭いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 今、お読みしました個所は、イエスのひと言から始まります。

 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(マタイ15:32)

 イエス・キリストは「かわいそうだ」とおっしゃいました。

 この言葉には、単なる同情以上の深い憐れみ、内なる痛みが込められています。原文の言葉では、「内臓がちぎれるような憐れみ」を意味します。

 つまりイエスは、空腹で疲れ切った群衆を見て、ただ「大変だね」と思ったのではなく、腹の底から心を動かされたということです。

 ここで、注目したいのは、群衆が自ら助けを求めたわけではないということです。群衆は、三日間もイエスとともに歩み、教えを聞き、癒しを受ける中で、気づけば食べ物が尽きてしまっていました。そんな群衆に、イエスの方から気づいて、心を寄せられています。イエス・キリストは、言葉にならない思いも、沈黙の中にある痛みも、見逃されません。

 イエス・キリストは続けておっしゃいます。

 「空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」

 このひと言には、深い思いやりがあります。イエスは、人々が霊的な真理だけでなく、現実的な必要も満たされることを願っておられます。

 さて、イエスは群衆を地面に座らせ、七つのパンと少しの魚を取って、感謝の祈りをささげ、弟子たちにお渡しになりました。そして、弟子たちは、それを群衆に配ります。

 この一連の流れは、まるで今日の教会で行われる聖餐式のようです。イエス・キリストは「感謝し、裂き、与える」という行動を通して、ご自身の命をもって人々を養う方として描かれます。

 その結果はどうだったでしょうか。

 群衆は皆、「食べて満腹した」と書かれています。

 さらに、余ったパン屑を集めると七つの篭いっぱいになりました。

 ここで使われている「篭」という言葉は、大きめの篭を意味する言葉が用いられています。使徒パウロが逃げる時に体を入れて吊り降ろされたのと同じタイプの篭です(使徒言行録9:25)。つまり、それほど多くの余りがあったということです。必要が満たされたばかりでなく、余りあるほどに恵みが注がれました。

 イエス・キリストの憐れみと祝福は、私たちが想像する以上に大きいのです。

 では、この出来事は、今を生きる私たちに何を語っているのでしょうか。

 第一に、この物語はイエス・キリストの心を示しています。

 イエス・キリストは、私たちの生活の必要を知っておられ、心を痛めてくださるお方です。空腹や疲れ、困難や痛みを、決して放置されることはありません。たとえ私たちが声を上げていなくても、イエス・キリストは見ておられ、心を動かしてくださいます。

 第二に、私たちの持つものがどんなにわずかであっても、イエス・キリストの手に委ねるとき、驚くべき祝福に変えられるということです。

七つのパンと少しの魚。それが何千人もの人々を満たしました。私たちが「これしかない」と思っているものでも、イエスはそれを「これで十分」として用いてくださいます。

 第三に、この奇跡はマルコによる福音書ではデカポリスでの出来事として描かれています。そうであれば、五千人への給食とは違って、イエス・キリストは異邦人の地でも、同じような奇跡を行われたということです。これは、イエスの福音がすべての人のためであることを示しています。国境や言葉、文化や背景に関係なく、すべての人がイエスの愛の対象です。そして、イエスの愛を受けた者は、今度は他の人をも愛する者として変えられていきます。

 イエス・キリストはあなたのことを心配しておられます。あなたのきょうの疲れ、あなたの人生の渇き、あなたの心の叫びを、イエスは聞いておられます。

 もしかすると、「自分はこんな小さな存在で、神の助けなど望めない」と思っている方がいるかもしれません。

 しかし、イエスは四千人の中の一人ひとりをご覧になり、そのすべてを満たされました。イエスはあなたにも目を注ぎ、心を動かし、必要を満たしてくださいます。

 わたしたちが自分の弱さや乏しさをイエスに差し出すとき、そこにこそ神の力が現れます。ただ足りるだけではなく、余りあるほどの祝福をもって、私たちは満たされるのです。

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