山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:嵐の中で信じる(マタイによる福音書14:22-36)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
船に乗って怖い思いをするという経験は、あまりないかもしれません。そもそも船に乗る機会が、今はあまりないような気がします。漁業を生業としている方や、釣り好きの人、船でしか行けない島に住んでいる人、そういう方たち以外は、そうそう頻繁に船に乗ることはありません。
私自身も、湖の観光船をのぞけば、数回しか船旅の経験がありません。ただ、その少ない経験の中で、一度だけ嵐の中、一昼夜外洋を漂った経験があります。棚から荷物が落ちてしまうほどの大きな揺れでしたが、それでも大きな船でしたので、沈む心配はありませんでした。
もっとも人生の荒波に翻弄された経験ならば、された方も少なからずいらっしゃると思います。確かに人生にも、まるで嵐のような瞬間があります。暗闇の中で、どちらに進めばいいかわからない。努力しても前に進めない。そんな時、私たちは誰の声を聞いているでしょうか。
取り上げようとしている箇所にも、嵐の湖に翻弄される弟子たちの姿が描かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書14章22~36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
きょう取り上げたこの話は、ガリラヤ湖で起こった出来事です。前回学んだ箇所には、五千人への給食という有名な奇跡が記されていました。その時イエス・キリストはわずか五つのパンと二匹の魚で、空腹の群衆を満たされました。ヨハネによる福音書によれば、人々は熱狂して、イエスを王にしようとさえしました(ヨハネ6:15参照)。そのような中、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、自分は山に登って一人祈られたとあります。
この「強いて」という言葉が大切です。弟子たちはきっと、奇跡を目の当たりにして気持ちが高揚し、人々の反応にも興奮していたでしょう。しかしイエスは、それが本来の目的ではないと知っておられました。イエスがもたらす神の国は、政治的な王国ではなく、神との関係の中に築かれるものだったからです。
その夜、弟子たちはイエスの言葉に従い、舟で湖を渡っていました。けれども、途中で突風が起こり、舟は波に悩まされました。時間は夜中、しかもローマの時法で「夜明け前の四時ごろ」つまり第四の夜回りの時だったと記されています(25節)。これは、一日の中でもっとも暗く、寒く、孤独を感じる時間帯です。弟子たちはきっと、「なぜこんな中、私たちを一人にしたのか」と思ったでしょう。
しかし、その闇の中に、イエス・キリストは姿を表します。しかも、湖の上を歩いてです。
これは自然の法則を超えた奇跡です。聖書はイエスが「ただの人間」ではなく、「神の子」であることを、このような形で示しています。ユダヤの人々にとって、海や湖は「混沌」や「死」の象徴でもありました。創世記にもあるように、神が混沌の海に秩序を与えて天地を創造されたように、イエスもまた、湖の上を歩くことで、その混沌の上にある神の力を現されたのです。
しかし、弟子たちはその姿を見て恐れ、「幽霊だ」と叫びました。イエスの姿を見てすぐに信じることができませんでした。
私たちもまた、人生の中で突然の嵐に襲われると、神の存在が見えなくなります。「神なんて本当にいるのか」と思うこともあるかもしれません。
しかしイエス・キリストはおっしゃいます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
この「わたしだ」という言葉は、原文では「エゴー・エイミ」、すなわち「わたしはある」と訳すことができる表現です。これは旧約聖書の中で、神がモーセにご自身を示されたときの言葉でもあります(出エジプト記3:14)。つまり、ここでイエスはただ弟子たちを慰めているのではなく、ご自身が神であることを明らかにされているのです。
この言葉を聞いて、ペトロが応答します。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と(28節)。
ペトロのこの信仰は、私たちが見習うべき大胆さと、正直さに満ちています。イエスが「来なさい」と言われたとき、彼は本当に舟を出て、水の上を歩き始めました。信仰とは、時にこのように、不可能と思える一歩を踏み出すことを求められるものです。
しかし、ペトロは、風を見て恐れ、沈みかけてしまいます(30節)。ここに、私たち人間の信仰の現実があります。最初はイエスを見つめていても、風という状況に目を奪われた途端、不安と恐怖に呑まれてしまいます。しかし、ペトロが「主よ、助けてください」と叫んだとき、イエスはすぐに手を伸ばしてペトロをつかまれました。
この「すぐに」という言葉が心に残ります。神は、私たちが助けを求めるとき、すぐに応えてくださるお方なのです。イエスはおっしゃいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。これは叱責ではなく、愛に満ちた問いかけです。私たちもまた、嵐の中で神を見失い、恐れや疑いに支配されることがあります。けれども、信仰が「薄い」ことをイエスは責めません。「なぜ疑ったのか」と問いながらも、私たちの手をしっかりとつかんでくださいます。
そしてイエスとペトロが舟に乗ると、風は静まりました。弟子たちは彼にひれ伏して言います。「本当に、あなたは神の子です。」(33節)これは、弟子たちが初めてイエスを「神の子」として明確に告白した瞬間です。奇跡よりも、恐れの中で助けてくださったその愛の経験が、弟子たちの信仰を深めたのです。
私たちの人生にも、思いがけない嵐が吹くことがあります。病、失業、人間関係の破綻、あるいは自分自身の弱さとの戦い。そうした中で、神はどこにおられるのかと問いたくなることもあるでしょう。しかし、今日の聖書はこう語ります。イエス・キリストは、嵐のただ中に来てくださいます。しかも、「すぐに」手を伸ばしてくださるお方です。
信仰とは、嵐がなくなることを意味しません。むしろ、嵐の中で誰を見つめるか、誰の声を信じるか、という選択なのです。