聖書を開こう

それでも実る種がある(マタイによる福音書13:1-23)

放送日
2025年4月10日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:それでも実る種がある


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 リスク管理という言葉をよく耳にします。予想されるリスクに対しては、できる限り備えておくに越したことはありません。しかし、リスクを恐れて、対策にばかり時間と労力を割いていては、かえって大きな損失を招くこともあります。まして、リスクを恐れるあまり、しようとしていたことを簡単に諦めてしまうなら、それはとても残念なことです。

 もちろん、どこまでリスクを考慮すべきかは大切です。たとえば、農業には天候という大きなリスクがあります。農作物を襲う病気や害虫、あるいは害獣のリスクもあります。そうしたリスクに備えて、さまざまな研究が重ねられ、今日に至るまで対策が講じられてきました。それでも、農業がノーリスクであることはありません。収穫の寸前になって、予期しない悪天候のために大打撃を受けることもあります。

 それでも、ほとんどの農家は次の年にはまた作物を植え始めます。過去の実績を信じ、無用なリスクに惑わされず、あらためて種を蒔くのです。

 きょうこれから取り上げようとしているイエスの教えにも、この農夫の姿がありのままに描かれます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書13章1節~23節までですが、長い箇所ですので、1節から8節までだけを新共同訳聖書でお読みいたします。

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 きょうからマタイによる福音書の学びも13章に入ります。13章にはイエス・キリストがお話して下さった「神の国」についてのたとえ話が、まとめて記されています。

 最初に話されたのは、種まく農夫の話です。このたとえ話には、イエス・キリストご自身によって解説がなされています。きょうはその部分を読み飛ばしましたが、後でご自分で読んでみてください。

 このたとえは、当時の人々には見慣れた農作業の情景でした。現代のように効率よく種を蒔くわけではなく、手にした種を手当たり次第に地面に撒くというのが一般的な方法でした。ですから、道端にも、石地にも、茨の間にも、そしてもちろん良い土地にも種は落ちました。

 一見すると、このたとえは、どこに落ちたかで種の運命が決まるように見えます。たしかに、道端では鳥が来て食べてしまいますし、石地では根が張れず、茨の中ではふさがれてしまいます。

 しかし、このたとえのクライマックスは、「それでも実る種がある」ということです。良い土地に落ちた種は、百倍、六十倍、三十倍にもなる実を結ぶ……それは、驚くべき収穫です。イエス・キリストがお語りになりたいのは、失敗に見えるような場面を恐れず、それでも希望を持って種を蒔き続ける姿勢です。

 さて、ここから私たちは何を学ぶべきかが大切です。

 現代的な視点で考えるなら、そもそもこのような非効率的な農法を改めて、道端も石地も、茨が生えている土地も、全部耕作地に開墾してしまえばよいだけのことです。

 しかし、イエス・キリストがおっしゃりたいことはそうではありません。現実には、神の国の福音に耳をふさぎ、理解しようともしない人々がいるという中での宣教の働きです。その現実からこのたとえ話が語られている点を見過ごしてはなりません。

 イエス・キリストがご覧になっているのは、そのような状況にあっても種を蒔き続ける農夫の姿と、その農夫の期待に応えて、多くの収穫をもたらす神の恵みです。

 農夫は、自分の蒔いた種が道端に落ちたり、石地に落ちたりすることがあるからといって、種まきを諦めたりはしません。農夫が見ているのは、実らなかった種ではなく、多くの実りをもたらす将来の収穫に目が注がれています。

 神の国とはそのようなものだとイエス・キリストはこのたとえを通して語りかけています。

 では、このたとえ話から今を生きる私たちにどのように適用することができるでしょうか。

 第一に、農夫に収穫の実りが約束されているように、神は神の国の実りを確実なものとして約束してくださっているということです。農夫にこの期待があるからこそ、種を蒔き続けているように、神の国の福音も、神の実りの約束を信じて語り続けることが大切です。

 第二に、神の国に逆らう勢力の出現は、世の終わりまで避けられないという現実を受け止めることです。蒔いた種の一部が実らないことを理由に農夫が種まきを断念することがないのと同じように、実りに至る過程で困難を経験したからと言って、全体の目標を見失うことがあってはいけません。時が良くても悪くても、み言葉を語り続けることが大切です。ただ、農夫の場合と一点違うのは、農夫には道端も石地の土地も茨に覆われた土地も区別がつきますが、福音を伝える者にとっては、良い畑とそうでない土地とを見分けることは困難です。み言葉を聴いて従わない人を簡単に切り捨てることが、このたとえ話の趣旨ではありません。

 そしてもう一つ、忘れてはならないのは、私たち自身が日々神の御言葉を受け取る「土地」であるということです。私たちの心が今、どのような状態にあるか。それを問いかける機会でもあります。忙しさに追われて、神の声を聞く余裕がなくなってはいないでしょうか。自分の思いや不安、あるいはこの世の価値観が心を覆ってしまって、御言葉が根づく余地がなくなってはいないでしょうか。

 けれども、どんなに荒れた土地でも、神は耕すことがおできになります。私たちがへりくだって神の御前に出るならば、神は御言葉の種を豊かに蒔き、私たちの心に命を芽吹かせ、やがて大きな実りへと導いてくださいます。

 今、あなたが歩んでいる道が、たとえ不毛に感じられるような時であったとしても、どうかあきらめないでください。神は働いておられます。見えないところで、静かに、しかし確かに、実りの準備が進められているのです。

 今日のたとえ話は、そうした神の国の不思議と恵みを、私たちにそっと教えてくれます。私たちもまた、その恵みに信頼して、日々、御言葉を受け取り、時には誰かに語り、祈りながら種を蒔いていきましょう。

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