
申成日(広島教会牧師)
メッセージ:病に感謝
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会の牧師、申です。
爽やかな朝を迎えられましたか。今日の一日、神様の守りと祝福がありますようにお祈りいたします。
「病に感謝」なんて、大変苦しみを覚えておられる方には失礼かもしれません。大きな病に侵された経験のないわたしが、そのような言葉をいたずらに用いることはいけないと思います。しかし、そうでありながらも、病をも司っておられる神様のことを考えると、やはり「感謝」なことであることを伝えたいと思います。
わたしが尊敬する牧師先生の中に、すでに天に召されましたが、古川第一郎という先生がいます。この先生は、牧師になったばかりの時に腎臓機能を失い、若い時から人工透析をしながら、牧師の働きをしておられました。
この先生と出会ったのは、わたしが来日して1年ぐらいたった時で、先生が働いた教会において協力するようになったのです。先生は、障碍者のための働きもなさっていましたので、教会員の多くが、心の病を持っておられた人でした。自ら障碍をもっておられたので、障碍者の気持ちを良く知っておられた先生の働きに、多くの障碍を持っておられる人が教会に集われたのです。おそらく先生が障碍を持っておられなかったならば、少し違った教会になったかもしれません。
聖書の中に、もっとも神様に用いられた信仰者の一人として、パウロという人がいます。その人は、体に何かの病気をもっていました。その病気がどういうことなのかは、はっきりと記されていませんが、ある人は、その病気とは「てんかん」だという人もいるし、「目の病気」とか「頭痛」だという人もいます。
パウロは、これの癒しのために、三度も神様に祈ったようです。しかし、神様は彼に、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)と言われたそうです。パウロは、そのことによって、神様は自分を思い上がらせないようにしていると悟り、また自分の弱さ、自分の苦しさがあるからこそ、そこにおいて、神の強さが現れることを悟ったようです。
昔のユダヤ人たちは、人が病にかかることを「神からの呪い」として考えていました。そのことから、弟子たちがイエス様に、「生まれつき目の見えない人は、だれが罪を犯したからですか。その人ですか、それとも両親ですか。」と聞きました(ヨハネ9:2参照)。しかし、このような質問に、イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)とおっしゃいました。
病は、間違いなく苦しいことです。その人にとっても、周りの人にとっても、大変苦しいことが多くあると思います。それを否定するつもりはありません。しかし、そのような病があるが故に与えられる祝福もあります。それが、家族の絆を強くさせたり、神への信仰が強くなることもあります。あるいは、そのことによって、大きな事故に巻き込まれないこともあるかもしれません。何よりも、命の大切さをもっと深く考えることができるでしょう。
わたしの病を通して、神様がなさろうとしておられる大きな働きを覚えるならば、自分に与えられた病をも、感謝することができると思います。今苦しみに負けてしまうのではなく、それを快く受け止め、それに勝る喜びと感謝が溢れますように、心からお祈りいたします。
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