唐見敏徳(忠海教会牧師)
メッセージ:罪赦された罪人
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島県竹原市にあります、忠海教会の唐見です。
「ライフ・アフター・ミニストリー・ポッドキャスト」というポッドキャストの番組があります。さまざまな事情で働きを続けることができなくなった元牧師、元宣教師、あるいは、元チャプレンへのインタビューを収録した番組です。自らがその当事者でもあるマット・デイビスと、その妻マリリー・デイビスが、番組のホストとして、その背後にある痛みや苦しみ、また再出発の道について掘り下げています。
この番組は、伝道と牧会の現場から離れざるを得なくなった彼らとその家族、そして、そのような状況に陥ってしまった教会を支援する「パストラル・トランジションズ」という団体のプログラムとして提供されているものです。同じような番組、団体が日本にもあったらいいな、と思います。私が知らないだけで、もしかしたらすでに存在しているのかもしれませんが。
クリスチャンを指して、「罪赦された罪人」と表現することがあります。聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、わたしたちの罪が赦されることを教えています。しかし、それでもなお、わたしたちの内に罪が残り続けることも教えています。
たとえば、新約聖書に登場するパウロは、ローマの教会に宛てて手紙を書き送りました。その中で彼は、イエス・キリストの十字架と復活による罪からの解放を語りつつ、誰一人として逃れることのできない罪の法則についても語ります。人間は、この世に生きている限り、たとえ、どれほど信仰熱心で敬虔なクリスチャンだとしても、その罪の支配から逃れることはできない、とパウロは書いています。
そして、クリスチャンが集う教会について考えてみると、それは、「罪赦された罪人の集まり」ということになります。パウロは、ギリシャの都市コリントの教会の信徒に対して、次のように書き送りました。
「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」(1コリント1:11-13)
ここで名前が挙げられている、アポロ、ケファ(これはペトロのことです)、そして、手紙の著者パウロは、当時の教会で指導的立場の人たちです。彼ら自身に直接的な責任があるわけではないようですが、コリントの教会の中で、いわゆる派閥争いが生じていたことを読み取ることができます。本来は平和でなくてはならないのに、実際は、争いの場になっていたわけです。
これは、もしかするとクリスチャン、そして、教会のイメージとはずいぶん異なるかもしれません。クリスチャンだからといって、その人が特別に聖いわけではありませんし、教会が特別に聖い人の集まりというわけではありません。もし、そのように考えて、クリスチャンや教会に対して敷居の高さのようなものを感じておられるとすれば、それは、全くの誤解です。
実際に教会に来られたことのない方にとって、教会は、いろいろな意味で、想像していたところと違うかもしれません。一口に教会といっても、いくつかの教派があり、また同じ教派であっても、違いがあります。ぜひ、お近くの教会に行かれることをお勧めします。
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