山下正雄(ラジオ牧師)
メッセージ: 緋のようであっても
おはようございます。月曜日の朝、気持ちよくお目覚めですか。ラジオ牧師の山下正雄です。
昔、古い借家に住んでいたことがあります。ある日どうしたことか、錆水が水道から出てきました。そうとは知らず、その水を洗濯に使ってしまい、洗濯を終えたときには、白いワイシャツがすっかり錆に染まっていたことがありました。当たり前のことですが、洗濯に使う水はきれいな水でなければなりません。
同じように宗教的な意味での汚れも、清いものによってしか、取り除くことはできません。これは自明のことです。清くいないものが清いものを生み出すことなどできるはずもありません。汚れた洗濯物を泥水で洗えば、よけい汚れがひどくなるのと同じです。
ところが、宗教的な意味での汚れだけは、自分でなんとか清めることができる、と錯覚に陥るのが人間です。罪に汚れた人間はもはや自分ではどうすることもできない、などと思ったら、絶望しかないからです。
しかし、聖書は人間の絶望を語ると同時に、希望も語っています。最も清い神が、人間を清めると約束して下さっているからです。
今日の言葉…「論じ合おうではないか、と主は言われる。 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。 たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる。」イザヤ書1章18節
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