ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問72−問73

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


洗礼について教えてきた『信仰問答』は、今回と次回で洗礼の理解に伴う附随的な問題を扱います。今回は洗礼についての誤解です。誤解を通して、正しい理解を身につけましょう。

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 儀式やシンボルというのは不思議なものです。それ自体はたとい何の変哲もない物であったとしても、きらびやかな器に入れられて恭しく扱われると何か特別なものであるかのような錯覚を抱いてしまいます。そこに様々な有り難い逸話が結びつくと、もう立派な崇拝の対象にさえなってしまうのです。

 仰々しい儀式と数々の聖像や聖遺物に満ちた礼拝堂での礼拝に慣れ切っていた人々にとって、プロテスタントの礼拝がいかに殺風景なものであったことか、私たちには想像できないほどです。そこに洗礼式と聖餐式という二つの儀式が辛うじて残ったわけですが、これらも放っておけばやがて同じように誤った理解が忍び込み、せっかくの礼典の恵みが台無しになりかねませんでした。

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 プロテスタントは儀式よりも聖書を重んじましたが、その聖書が洗礼を「罪の洗い清め」と呼んでいるのは洗礼の水が「罪の洗い清めそのもの」だからなのでしょうか。これが今回の問いです。水という物を神聖視してしまうというよりも、聖書の教えを文字通り理解してよいのかが問題でした。

 「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです」。水そのものに力があるわけでも、儀式が力を発揮するわけでもない。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めること」(1ペトロ3:21)であり、そのように私たちをすべての罪から清めるのはただ御子イエスの血(1ヨハネ1:7)と聖霊(マタイ3:11)のみなのです。

     大切なことは、水のリアリティです。
            それは私たちの救いのリアリティそのものを現します。

 それではなぜ、聖霊は聖書において洗礼を「新たに造りかえる洗い」(テトス3:5)とか「罪の洗い清め」(使徒22:16)と呼んでいるのでしょうか。ただの水を、主イエスの血になぞらえているのはなぜでしょうか。もちろん「神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪がキリストの血と霊とによって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです」。

 御言葉だけでもよかったはずです。信仰は霊的なことに関わるのですから、儀式など不要かもしれません。しかし、私たちのために神は、洗礼という儀式をくださいました。キリストの血と霊とによって私たちの罪が除き去られるという事実を、言わば実物教育でお示しになるためです。

 キリストによる罪の赦しは、霊的な事実です。しかし、目に見えない事柄を私たちは十分理解することはできません。それを目に見える形で教えてくれるのが礼典です。それだけではありません。「わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪が霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの神聖な保証としるしとを通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」。

 人間の心は変わります。すべてが順調に行っている時には、本当に生まれ変わってクリスチャンになってよかったと思います。ところが状況が一変すると、自分は赦されていないのではないか、救われていないのではないか、もうダメだと思ってしまう。それが人間です。けれども、神の救いは、天気のようにコロコロ変わるものではありません。確実に私たちの罪を赦し、確実に私たちを救うのです。たとい私たちの心が変わっても神の救いは変わらない。その変わらないという確実さを私たちに示すために、私たちの救いの事実を“くさび”を打ち込むようにしてお示しくださる。それが洗礼なのです。

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 何年何月何日。洗礼を受けたという事実は、教会に記録されます。たとい私たちが忘れても記録は残り続けます。神がこの私を救いに招き入れてくださったということ。それは動かしがたい事実として残り続けるのです。目に見えない罪の赦しという出来事が現実であるということを私たちに示すために、言葉だけではない本物の現実の水、冷たいと感じる水を使ってするのです。

 大切なことは、水のリアリティです。それは私たちの救いのリアリティそのものです。その意味で、洗礼はまさに「新たに造りかえる洗い」と言えましょう。

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