キリスト教会は伝統的に子供たちにも洗礼を授けてきましたが、今日では授けない伝統の教会もあります。このような違いが生まれたのはなぜでしょうか。また、なぜ教会は幼児にも洗礼を授けてきたのでしょうか。
洗礼についてのもう一つの問題は、幼児洗礼の問題です。キリスト教会は、古来、伝統的に幼児にも洗礼を授けてきましたが、宗教改革の時代から洗礼を大人だけに限るという立場の教会が生まれたからです。
罪人はただ信仰のみによって救われるというプロテスタントの主張は、一人一人の自覚的な信仰を促しました。聖書の教えをきちんと理解してイエス・キリストを信じ、キリスト者として生きる決意をした者のみに洗礼を授けるべきであって、何も分からない子供たちに授けるべきではないという立場が出てきたわけです。
この主張は、生まれれば自動的に洗礼が授けられ、聖書を知っていようがいまいが自覚があろうがなかろうがキリスト者になるという、当時のキリスト教社会に対する厳しい批判に基づいていました。ところが、すでに千年以上も守られ続けて一つの社会秩序となっていた幼児洗礼の否定は、社会的混乱を引き起こすのみならず聖書の教えにも反する“急進的”立場として、プロテスタント側からも迫害されました。
今から思えば、当時の形骸化した教会に対する彼らの批判は十分考慮に値する主張でしたし、立場が違うというだけで迫害したことは(時代の制約があるにせよ)許されることではありませんでした。しかし、歴史的評価とは別に、はたして幼児洗礼が聖書にかなったことであるかどうかは今日も検証される必要があるでしょう。
本人は忘れても神はお忘れにはならない。
それが、神の家族の一員として“契約のしるし”を受けることの意味なのです。
まず確かめておきたいことは、聖書には“子どもに洗礼を授けなさい”という命令も、逆に“授けてはならない”という命令も出てこないということです。では、なぜキリスト教会は幼児にも洗礼を授けてきたのでしょうか。このことを理解するためには、もう一度「洗礼」とは何かをきちんと理解しておく必要があります。
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洗礼とは、主イエス・キリストにおける神の一方的な恵みによる罪の赦しの約束の“しるし”であって、それによって私たちはキリストの体なる教会の一部に加えられるのです。決して私たち個人個人の信仰の確信を保障するものではありません。聖書の信仰は人格的なものですが、個人の信仰で終わるものではないのです。
このことは、神の選びの民である旧約のイスラエルのことを考えるとわかりやすいでしょう。イスラエルの民は決して大人の集団ではなく、子供たちも一緒でした。神との契約に基づく神の“家族”だったからです。家族であれば、子供が一緒にいるのは当然です。お前はまだ何もわからないから家族ではないとは言えません。
このような神の家族としての信仰共同体という理解は、新約の教会も全く同じです。神の約束は大人のみならず「あなたがたの子供にも」与えられています(使徒2:39)。私たちの神は、私たちの子孫の神でもあるからです。それ故、キリストの福音もまた私たちの家族を丸ごと救う言葉(使徒11:14、16:31)であり、信じた者たちは一家をあげて主を信じ、家族で洗礼を受けました(使徒16:15、33、18:8)。その中に子供たちもいたであろうことは容易に想像がつきます。実に、子供たちも「大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪の贖いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです」。
むしろ、そのような信仰共同体の中で、神の恵みによって我が子が豊かに育まれて行くことを信仰者の親は願うものです。大人であれ幼児であれ、キリストによる罪の赦しなしで生きることなど人間にはできないと信じているからです。
こうして子供たちは洗礼を通して「キリスト教会に接ぎ木され」信仰共同体の一員となります。このような神の契約のしるしは「旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです」。
もちろん、信仰の旅路はそこから始まります。洗礼を受けた子供たちがやがて自分の心で信じ自分の口で主を告白する日を、共同体は待ち望みます(ローマ10:10)。たとい教会から一時的に離れても、神の恵みにあり続けると信じています。本人は忘れても神はお忘れにはならない。それが、神の家族の一員として“契約のしるし”を受けることの意味なのです。
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