「洗礼」という儀式に表されているのは、イエス・キリストの福音の約束です。その約束を知らなければ、洗礼という儀式自体には意味がありません。それでは、洗礼が表している約束とは何でしょうか。
礼典とは、福音の約束の「目に見える聖なるしるしまた封印」であると学びました(問66)。その福音の約束とは「十字架上でのキリストの唯一の犠牲」に基づくことでしたが、洗礼の水が特に表していたのは「キリストの血と霊とによって洗われる」ということでした。問70では、この約束の意味をもう少し詳しく説明しています。
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キリストの“血”と“霊”というこれら二つが表している事柄は、罪の赦しと再生です。別に言えば、死と生ということです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは…、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」とパウロが語ったとおりです(ローマ6:4)。
キリストの“血”と“霊”というこれら二つが表している事柄は、
罪の赦しと再生です。別に言えば、死と生ということです。
洗礼が表している第一のことは、私たちの死です。かつてノアの洪水が罪に満ちた全地を沈めて葬り去ったように、私たちの古い自分もまた葬り去る必要があります。このことは特に、全身を水に沈める浸礼という洗礼の仕方においてよりよく表される真理です。
しかし、そこで表される死は、決して私たちを滅ぼす死ではありません。私たちを生かすための死です。正確に言えば、古い自分がキリストと共に葬られるということです。罪にまみれた私の身代わりとして、キリストが死んでくださった。それがキリストの十字架の意味でした。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)。キリストが私の身代わりとして死なれた以上、私もすでに死んだのです。
それは別に言えば、私の罪が完全に赦されたということを意味します。なぜなら、罪にまみれた私はすでに葬り去られたからです。十字架上で流されたキリストの血潮によって、私の罪も洗い流されたのです。「十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神からの罪の赦しを得る」とは、そのことです。持って生まれた罪だけでなく、現在の罪も将来の罪もいっさいを流し去る完全な赦しです。それは、神の愛による恵みの洪水なのです。
国民のほぼすべてがキリスト者であったヨーロッパの中世の時代、洗礼と言えば乳幼児に授けるものでした。しかし、その頃の教会は、洗礼によって赦されるのは持って生まれた(すなわち洗礼を受ける前の)罪だけで、洗礼を受けた後の罪についてはまた別の赦しが必要であると教えていたのです。
しかし、洗礼が指し示す主イエス・キリストの血潮による罪の赦しは、そのように機械的なものでも限定的なものでもない。子供であれ大人であれ、生まれつきの罪であれ将来の罪であれ、すべてを赦して余りある赦しであるというのが、聖書の教えであり宗教改革者たちの確信でした。
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さて、第二に洗礼が表していることは、キリストにある新しい命です。古い私の葬りを表した水は、同時に、新しい私を生み出す命の象徴でもあります。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)と言われた主イエスは、「わたしを信じる者は…、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とも仰せになりました(7:38)。この「生きた水」とは、イエスを信じる人々が受ける“霊”にほかなりません(同39節)。
そのように「聖霊によって新しくされ」キリストの命にあずかった人々は、言わば接ぎ木されて「キリストの一部分として聖別され」た人々です。そのままでは枯れ果てていたはずの私たちが、キリストにつながることで生き返り、キリストのものとされるのです(問1参照)。
「それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです」と信仰問答は教えます。ちょうど太い幹から細い枝々にゆっくりと養分が行きわたって実が結ばれるように、キリストに結ばれた人生もまた聖霊の力によってゆっくりと変えられていくのです(ヨハネ15:5)。
洗礼が信仰生活の“スタート”であると言われるのは、そのためです。
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