新約においてキリストがお定めになった礼典は、洗礼と聖晩餐(聖餐式)の二つでした。今回からは、このうち「洗礼」についてしばらく学んでまいりましょう。
16世紀にヨーロッパで起こった宗教改革は、聖書の福音によって、人々の心が再び生き生きとした信仰へと回復されて行った出来事でした。その変革は、中でも教会の礼拝に顕著に見られました。形だけの礼拝から“意味の分かる”礼拝へと改革されたからです。
この時代に作られた教理問答書の礼典についての解説が長いのは、そのためです。『ハイデルベルク信仰問答』も問69から問82まで、実に14問(洗礼に6問、聖晩餐に8問)も費やして教えています。少し詳しすぎるかもしれませんが、とかく形式主義に陥りやすい礼拝が生き生きとしたものとなるために忍耐強く学んでまいりましょう。
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さて、キリスト教会で伝統的に用いられ、今日も多くの日本語訳聖書で「洗礼」と訳されている元の言葉は、バプテスマというギリシャ語です。この言葉の動詞の本来の意味は“浸す”とか“沈める”ということで、“洗う”とか“儀礼”という意味はありません。それで、教会によっては、洗礼という言い方を避けて「バプテスマ」という言葉をそのまま用いる場合もあります。
しかし、新約聖書では、このバプテスマのことを「新たに造りかえる洗い」(テトス3:5)と言い換えたり、バプテスマを受けて罪を「洗い清め」なさいと言われたりしている所もあります(使徒22:16)。ですから、キリスト教会における洗い清めの儀式を日本語で「洗礼」と呼んでも間違いではありません。
同様に、この洗礼式の形式も教会の伝統に応じて様々なやり方があります。バプテスマという言葉の意味通りに、全身を水に“浸す”か“沈める”浸礼というやり方と、水を頭に滴らす滴礼の大きく二つに分けられますが、場所や様式や水の量など、多様性があります。聖書には、洗礼の方法について何も定められていないからです。他方、洗礼は通常一回限りであることや自分自身で行うのでなく授けてもらうことなどは、共通しています。
説教と礼典による生きた礼拝に与ることによって、私たちは・・・
十字架の主を信仰の目をもって仰ぐ者となることでしょう。
洗礼の起源は、よくわかりません。旧約聖書の中にも洗い清めるという儀式は種々ありますが、キリスト教の洗礼の直接のモデルになったのは、イエスに先立って現れた洗礼者ヨハネの洗礼でしょう。ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていました(マルコ1:4)。また「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言って、イエスを通して与えられる洗礼を預言しました(1:8)。
イエス御自身もまた復活後、弟子たちを派遣するにあたって「あなたがたは行って、すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいとお命じになりました(マタイ28:19)。そして、実際、イエスの昇天後に弟子たちは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と言って洗礼を授けました(使徒2:38)。こうして、今日に至るまで、キリスト教会ではこの礼典を守り続けているのです。
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さて、『信仰問答』は「あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか」と問いかけます。「思い起こし」と言う言葉は“心に刻む”とも訳せる強い言葉です。キリストの十字架の犠牲の恵みが本当にわたしにも及んでいる、「わたしの魂の汚れ/わたしのすべての罪」は本当に洗い流されたのだと、洗礼を通して深く心に確信させられるのです。なぜなら、肌で感じる水を疑えないのと同様、キリストの救いもまた確実だからです。「日頃体の汚れを落としているその水」を用いるように、日常のただ中で「確実に」キリストの救いはわたしの身の上に起こるのです。
宗教改革者のマルティン・ルターと言う人は、信仰の試練にあった時、自分の罪深さや小ささを思い知らされた時、「わたしは洗礼を受けた。わたしは洗礼を受けた」と繰り返し自分に言い聞かせたそうです。絶えず揺れ動く不確かな自分に心をとめるのではなく、洗礼という出来事に現されたキリストの救いを心に刻もうとしたのでしょう。洗礼が保証するのは私たちの確かさではなく、キリストの確かさだからです。
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