ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問65

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


罪深い私たち人間がただ信じることによって救われることのすばらしさについて学んできました。しかし、そもそもこの信仰はどのようにして生まれ、どのようにして強められて行くものなのでしょうか。

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 イエス・キリストに結び合わされた人々は必ず豊かな“実”を結ぶと学びました。『信仰問答』は、その感謝の生活を最後の第三部(問86以下)で教えます。が、そもそも人はそのような信仰にどのように導かれるのでしょうか。また、その信仰は何によって強められて行くのでしょうか。それが今回のテーマです。

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 私たち罪人がイエスを信じるようになるプロセスは不思議です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)が、すべての人々が信じるわけではありません。ある人は信じますが、ある人は違います。これは決して私たちの努力によるのでも、まして強制的になされるものでもありませんし、あってもなりません。信じるという心の働きは、人間の最も深い心の働きだからです。“信教の自由”が人権の中でも最も大切なものとして重んじられるのはそのためです。

 皆さんが、教会やキリスト教に導かれたきっかけは何でしたか?生まれた時からクリスチャン・ホームで、友人に誘われて、学校の宿題で、たまたま聖書をもらって、心や体の病気になって、人に言えない悩みにぶつかって等々、理由は様々でしょう。しかし、それだけで信じるようになるわけではありません。自分が聖書の時代に生きていてイエスの奇跡を目の当たりにしたなら信じただろうと言う人が時々いますが、そんなことはありません。当時も今も信じることは人間の力によらないのです。

 聖書の中に、リディアという女性の話が出てきます。紫布を商う商人だった彼女がある集会で伝道者パウロの話に耳を傾けていた時、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」とあります(使徒16:14)。他にも聞いていた人はいたでしょうに、彼女だけが熱心に耳を傾けた。聖書はそれを人間のあずかり知らない“主”の御業だと言っています。

 神に対する信仰とは「聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通して」起こす御業です。死にかけているような罪人の心の一番深い部分に、聖霊が働かれて生み出されるものです。「起こす」を「火を灯す」とラテン語版が表現しているように、真っ暗で冷たい心の闇がパアッと明るく燃やされるような聖霊の働きです。
 このような神秘的な出来事は、しかし、あくまでも「福音の説教を通して」起こります。少なくとも聖書の神に対する信仰は、何も分からずに信じることでも脅されて信じることでもない。むしろ、私たちがこれまで学んできた主イエス・キリストの福音、神がどれほど私たちを愛して、どれほど大きな犠牲を払ってくださったかを繰り返し学んで行くうちに心開かれ、この方に対する愛と信頼が生まれてくるのです。それが信仰です。この福音の働きについては、問84以下で再び取り上げます。

 神に対する信仰とは・・・死にかけているような罪人の心の一番深い部分に、
     霊が働かれて生み出されるものです。

 さて、そのように私たちの心に芽生える信仰にとってもう一つ大切なことは、その信仰が「確かに」されることです。聖霊はそれを「聖礼典の執行を通して」為してくださると『信仰問答』は教えています。

 キリストの教会で行われる洗礼式や聖餐式などの「聖礼典の執行を通して」信仰は確かにされます。信仰を確かにするためのものですから、洗礼も聖餐も信仰が前提とされます。信仰が無いまま礼典にあずかっても意味がないのです。
 しかし、洗礼や聖餐は受けなければなりませんかと時々聞かれることがあります。心の中で信じるだけではいけないのかと。 もちろん“いけない”ということはありません。しかし、逆に、受けられないという理由は何でしょうか。何か自分の中にまだモヤモヤしたことや信じ切れていないことがあるからではないでしょうか。礼典は、まさにそのような私たちの信仰を「確か」にするために神がくださった手段なのです。

 あれこれ悩んでもしょうがない。すべてを神様にお委ねして自分を丸ごと明け渡す。それが洗礼です。自分の力で生きているのではない、キリストが私を愛し生かしておられる。それが聖餐の恵みです。情けないほどに弱い私たちが、神の救いの中で生かされていることの確かさ。礼典を通して与えられる確かさとは、今や神の御手の中に生きる者とされたことの確かさなのです。

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