石のように硬い私たちの心が次第に神の愛によって変えられて行く、その手段として用いられるのが説教と礼典でした。これからしばらく、この「礼典」について学んで行きましょう。
説教も礼典も、キリスト教の最初期から守られ続けてきた、教会のとりわけ礼拝における大切な営みです。それぞれの教会の立場や伝統によってこれらの用い方や意味づけが異なり、時には論争になることさえありましたが、まずは一つの立場をキチンと理解することが大切です。そうすることで互いを理解することもできるからです。
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「礼典」は英語でSacramentと言います。元々はSacramentumというラテン語から来ていますが、これをプロテスタント教会では通常「礼典」と訳し、カトリック教会では「秘跡」、東方教会では「機密」と訳しています。ラテン語のSacramentumは、元来、兵士が入隊する際の誓約を指す言葉でした。皇帝や神々に対する忠誠を誓って一兵卒として軍務に尽くすことを表したのですが、後には秘儀や奥義という意味も帯びるようになりました。
教会における洗礼や聖餐が、似たような意味の広がりを持っていたためでしょう。やがて、この言葉が礼典を表す専門用語として用いられるようになったのです。
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『信仰問答』は、礼典を次のように簡潔に定義しています。「それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた封印」であると。第一に、それは神によって制定されたものです。教会には様々な儀式がありますが、神によって制定されたもののみをサクラメントと呼びます。
第二に、それは目に見えるものです。説教を聞くだけで十分と考える人もいるかもしれません。しかし、神は、目に見えることに左右されがちな私たちのために、キリストの恵みを頭や心だけでなく、目で見て五感で感じることができるような形でお与えくださったのです。
第三に、それはしるしであり封印です。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証し[原語:しるし]として、割礼の印[原語:封印]を受けたのです」とパウロは言っています(ローマ4:11)。アブラハムは神の約束をまっすぐに信じ、神はそれを義とお認めになりました。しかし、神の存在も御心も目には見えません。それで、神はアブラハムが義であることを示す“しるし”として割礼をお与えになり、あたかもその人に恵みを封じる“封印”のように、神の義が与えられたことを示されたのです。
礼典を通して私たちは福音を味わわねばならない。
礼典には、福音の味がしなければならないのです。
このことから分かるように、礼典の目的は、その執行を通して「福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印」することにあります。つまり、礼典とは、決して聖職者だけが理解できる摩訶不思議な儀式なのではなく、本来すべての信徒のために神がお与えくださった儀式であるということです。信徒一人一人が福音の約束をよりよく理解し、その恵みが自分にも確かに与えられていることを確信するための儀式なのです。
そのように理解すべき福音の約束とは「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる」ということです。十字架のキリストの犠牲のゆえに、こんな私の罪でも今やことごとく赦されている。イエス様のおかげで、こんな私でも永遠の命にあずかっている。この驚くべき福音の約束をよりよく理解させ、それを一人一人に確信させる。
それが礼典の目的です。
イエス・キリストが命がけで私たちのために獲得してくださった恵みを、私たちが肌で感じ口で味わい全身で受けとめるためです。それは、キリストの救いの恵みと力が私たちの全生活に及んでいることの証に他なりません。目には見えない風を葉の動きに見てとり肌で感じるように、礼典にあずかるたびに「ああイエス様の恵みが今日も確かにある。私の中に、私の生活の中に確かにある」と、聖霊の働きによって私たちは確信させられるのです。
それ故、カルヴァンという人は、イエスの福音が説かれる所ではどこでも礼典が執行されねばならないと言っています。可能であれば、毎日曜日でも礼典が執行されることを彼は願っていました。逆に言えば、礼典を通して私たちは福音を味わわねばならない。礼典には、福音の味がしなければならないのです。そうして初めて、身も心も丸ごと満たされる礼拝となるでしょう。
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