イエス・キリストを信じる人々もまた“善い行い”をするようにと聖書は勧めています。実際、神が豊かに報いてくださるとも約束されています。これは人間の業を重んじる“功績主義”とどこが違うのでしょう。
私たち罪人が救われるのは“善い行い”によるのではない。そもそも私たちがする善い行いは、神の御旨に100%かなうようなものではないと学びました。しかし、聖書を読むと、それとはまた別なことも書かれていることに気づきます。神が私たちの業に報いてくださるということです。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(マタイ19:29)。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:12)。
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けます」(1コリント3:14)。
「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(黙示22:12)。
神は私たちがすることに報いを与えてくださる。この世でも後の世でも報いてくださると聖書は教えているようですが、これらの言葉をどう理解すればよいのでしょう。「その報酬は、功績によるのではなく、恵みによる」というのが、答えです。
つまり、営業マンの業績のように、これだけの成果を出したからこれだけの報酬をもらえるというものではない。そうではなく、主が約束してくださる「報酬」とは、「恵み」として与えられる御褒美のようなものだということです。
このことをよく教えている例え話が「ぶどう園の労働者」のお話です(マタイ20:1-16)。朝早くから働いた人にも最後の一時間しか働いていない人にも、主人は同じだけの報酬を与えます。もし報酬が働いた分に応じて決められるのだとすれば、これは不公平です。しかし、この気前のよい主人は、誰にも雇ってもらえない挫折感を味わっていた人々にも働く喜び・生きる喜びを与えたかった。これは冷たい雇用関係などではない。主人の愛に基づいた人格的関係であり、「恵み」による関係です。
小さな子どもが一所懸命にしようとする“善い行い”を、親はその出来不出来にかかわらず褒めて励まそうとするでしょう。子どもの人間としての成長を願うからです。それと同様に、主もまた御自分の子供たちの成長を願って叱咤激励し「報い」を与えようとおっしゃってくださるのです。
キリスト者の“善い行い”とは、
キリストに結ばれることによって自然に生み出されていく実りなのです。
けれども、そのように甘やかしていると「無分別で放縦(ほうじゅう)な人々をつくるのではありませんか」と信仰問答は案じます。これは、救いに善い行いはいらないという信仰義認の教えに対する批判を代弁する問いです。人間が安易な方に流されやすいというのは本当です。それにもかかわらず、信仰問答は「いいえ」と断言します。「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」と。
私たちの罪を赦すために、御自分の独り子を十字架につけた壮絶な神の愛。功績によって人の価値をはからず、すべての人をありのままに受け入れるために主イエスが払った筆舌に尽くしがたい犠牲。この神の赦しの愛に心打たれ「まことの信仰によって」キリストに結ばれた人々が、何の感謝の実も結ばないということなどありえない(1ヨハネ3:16)。それが聖書の論理であり、信仰問答の確信なのです。
その「実」が大きいか小さいかは、人によって違うでしょう。にもかかわらず、主イエスに結ばれた人は必ず実を結びます。たとい死んだように見える枝であっても幹にしっかりつながっているならば必ず実を結ぶように、キリストにつながっている者もまた豊かな実を結ぶと、主御自身が約束しておられます(ヨハネ15:5)。
神の愛を知れば知るほど、キリストの恵みを味わえば味わうほど、私たちの心もまた少しずつ変えられて行くからです。誰から強制されなくとも、自発的に主の愛に応えて生きたいとの願いが生まれてくることでしょう。これがキリスト者の生活です。義理や義務感からするのではなく“こんな私を愛してくださり赦してくださってありがとう”という「感謝」の心から生まれる行為です。
キリスト者の“善い行い”とは、キリストに結ばれることによって自然に生み出されていく実りなのです。
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