信仰心を持つ人たちは“善い行い”をする人たちだ、というイメージを多くの人が持っているかもしれません。しかし、聖書が求めている“善い行い”とはいったい何なのでしょう。
聖書の最も大切な教えとして、私たちは主イエス・キリストを信じることによってのみ救われるということを学びました。しかしこのことは、普通の人々が抱いている宗教の感覚からは少しずれているかもしれません。信仰者が信仰心を持つのは当り前だとしても、信仰者は同時に良い人間でもある、少なくともそのように努力する人でなければならないというのが普通の感覚ではないでしょうか。
ところが、聖書は信仰によって“のみ”救われると言う。それだけを求めるのです。すると自然な感情として“善い行い”はいらないのですかと尋ねたくなる。善人にならなくてもいいのですか、と。実際、この『信仰問答』が作られた時代は善い行いをしなければ地獄に行くと信じられていた時代で、たとい善行を積んでもなお死後煉獄(れんごく)で清められねばならないほどだったのです。
ですから宗教改革者たちが「信仰のみ」と言った時に、善い行いはどうなるんだと人々が疑問に思ったのは当然のことでした。『信仰問答』は、その疑問に問62から64で答えて行きます。
まず肝に銘じなければならないことは、私たちが“善い”と考えるレベルと神のレベルとは雲泥の差があるということです。私たちが考える善い行いとは、精々、世のため人のためになるような行いという程度のことではないでしょうか。しかし、聖書が求める善い行いとは「神の裁きに耐えうる義」のことであり、私たちが考えているレベルとは根本的に違います。
では、神の裁きに耐えうる義とは何か。それは第一に「あらゆる点で完全」であることです。例えば、水の上に一滴の墨汁が落ちると、もはや「完全」に清い水とは言えなくなります。どんなに小さな汚点でも、神の基準にかなった義ではなくなるのです(ヤコブ2:10)。
第二に、それは「神の律法に全く一致するものでなければなりません」。完全な一致とは、聖書の掟を全部守ると言うことでは必ずしもありません。聖書に表された神の御心に一致することです。神が欲してもいないことを勝手に押しつける“親切の押し売り”は義とは言えません。あくまでも神がお求めになることに一致しなければ、神の裁きに耐えることなどできないのです。
人間が善いと考えるレベルをはるかに越えた
想像を絶する神の義が十字架において成し遂げられた。
しかし、それでは誰も善い行いなどできないではないか。その通りです。ですから聖書は誰にもできないと言っています。「この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れている」からです。何でも悪い事ばかりということではありません。ただ、神の御心に一致していないと言うことです。逆に言えば、神の御心をいささかでも理解しない限り、人間には神の基準そのものがよくわからないということでしょう。
この一番よい例がパウロです。パウロは、最も厳格なファリサイ派に属するユダヤ人で「律法の義については落ち度がない」と言い切れるほど立派に神の律法に従って生きていた人です(フィリピ3:6)。ところが、他でもないこのパウロが「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と言うようになったのです(ローマ3:20)。なぜでしょうか。主イエスという方を知ったからです。
神の求める義がどれほど深く、どれほど壮絶な献身を求めるものであったか。それをイエス・キリストを通して知りました。神の義とは、神が御自分の愛する独り子を十字架で犠牲にしなければ決して全うできないようなものであった。人間が善いと考えるレベルをはるかに越えた、想像を絶する神の義が十字架において成し遂げられた。そこに現された神の心・神の愛にパウロは圧倒されました。人は神の憐れみによってのみ救われる。「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義」によって生きて行く以外に“善い”道など人間にはない。それがパウロの確信となりました(フィリピ3:9)。
私たちは自分の“善い行い”によって救われるのではないという主張は聖書の教えであると同時に、十字架上に現された神の壮絶な愛の心に圧倒されて神の憐れみに生きるようになった者たちの“信仰告白”の言葉なのです。
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