『使徒信条』の最初は“父なる神”についてです。このお方については、創造と摂理(せつり)という二つのことを学びます。今回は、天地創造の業について学びましょう。
天地創造は、聖書のすべての教えの土台となる最も根本的な教えの一つです。想像を絶する神の壮大な御業を、聖書は様々に語っています(詩編19,104、ヨブ8-41)。しかし、何と言っても印象的なのは、最初のページ(創世1章)に描かれる創造記事でしょう。混沌とした闇に響く「光あれ」との神の言葉によって始められる創造の業、これが“無から”の創造です。このようにして世界は、ただ神の御命令によって造られたというのが聖書の教えです。
古代から伝わるいわゆる創造神話では、世界と神々との一体性・連続性がしばしば語られます。自然そのものに神が宿ると信じられているからです。けれども、聖書は違います。無の状態から、ただ神の言葉によって万物は創造されました。そこには連続性はありません。創造者なる神と被造物との間には、絶対的な隔たり・無限の淵・越えられない一線があるのです。被造物はあくまでも造られたものであって、造った方と同じになることはできません(イザヤ45:9)。逆に言えば、被造物は創造者の許しなしではたちまち無に帰する存在だ、ということです。
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もう一つ、御言葉による創造から教えられるのは、この世界には意味があるということです。“言葉による”とは、神の意思に基づいて造られたということにほかなりません。聖書の創造物語が伝えようとしているのは、宇宙の生成についての解説ではなく、万物が神の意思によって成っており、それ故にそこに起こる一切の出来事もまた神の意思による、ということなのです。
もし世界が偶然にできたのなら、起こりくるすべてのこともまた偶然です。私たちはただ偶然に身を任せて生きるほかなく、生きる意味を問うこともまた無益でしょう。世界はただ無意味な偶然の連続の産物なのですから。しかし、そうではないと聖書は告げています。世界は神の意思によって造られたのだ、と。そうだとすれば、起こりくるすべてのこともまた神の意思によるのです。実に神は、万物を「永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる」方だと言われているとおりです。けれども今回の問答の中心は、この創造主である方が「御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる」という点にこそあります。
わたしが母の胎内に造られたのは、偶然ではない。わたしが生まれて今日まで生きてきたのは天の父の「熟慮と摂理」による。わたしには、この世界には、生きる意味がある! 造り主なる神を「わたしの神またわたしの父」として信じるとは、そういうことです。
たといそれが私にとってつらい訓練になることがあっても、
決して無駄になることはない。それが父なる神への信頼です。
天の父は、無力な私たちの「体と魂に必要なものすべて」を備えてくださいます。空の鳥・野の花にまさって、私たちを心にかけてくださるからです(マタイ6:25-34)。さらに、私たちが本当に人間らしく、また神の御心にかなう者として成長するために必要なこともすべてです。けれどもそれは、いつも私たちにとって快いものとはかぎりません。
たとい「涙の谷間」のような“悩み多い生涯”(ラテン語訳)を生きねばならなくとも、それでもそこに天の父の熟慮がある限り、必ず「わたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです」。
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なぜそこまで信じられるのでしょうか?それはこの方が「全能の神」であられると同時に「真実な父」でもあられるからです。神にとって、不可能なことはありません。そして、その方が「真実な父」として意志される以上、必ずそうなるはずなのです。たといそれが私にとってつらい訓練になることがあっても、決して無駄になることはない。それが父なる神への信頼です。
神の全能性の教理は、通常、天地万物を創造なさった力強い御業について言われる教えです。しかし、『信仰問答』はむしろ「わたしのために益としてくださる」神の全能性の告白としています。御子イエス・キリストの贖いのゆえに「わたしの父」となってくださった方が、まるで子煩悩な父親のように、ひたすら御自分の子どもたちのために全力を尽くしてくださるというのです。
創造主なる全能の神が「父」であるとは、何という幸いなのでしょう!
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