今回は、摂理の業について学びます。本問答の答えは『ハイデルベルク信仰問答』の中でも秀逸と言われています。単に文章のみならず、その心を御一緒に学んでまいりましょう。
天地の造り主である方が「わたしの父」でもあられることを学びました。この方は万物を創造なさったばかりでなく「それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる」神です(問26)。さて、それではこの「摂理」とは何でしょうか。わたしの父であられる方は、いったい何をしてくださるというのでしょう。
摂理とは「全能かつ現実の、神の力」だと信仰問答は定義します。およそ真の神がなさることはすべて、私たち人間などには思いも及ばない「全能」の御業でしょう。しかし、神の摂理は、全能の神の業であるだけでなく「現実の」力だと言うのです。「現実の」とは、私たちが日々目にし感じることのできるということです。ラテン語訳では「いずこにも現在する」となっています。昔々にではなく、また何か奇跡的な出来事においてのみ見られるものでもなく、毎日どこでも見ることのできる神の御業、それが摂理なのです。
具体的には「木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も」すべてが神の摂理の業だということです。四季折々の自然界の営みに始まり、毎日のお天気や田畑の様子、日々の食卓から私たち自身の健康や家計の状態に至るまで、私たちの身の周りで起こる「すべてが偶然によることなく」もたらされます。
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摂理を英語で“providence”と言います。 この言葉は「前(pro)」と「見る(video)」が合わさってできた言葉です。つまり、摂理とは「前を見ること」なのです。私たちではなく、神が前を見ていてくださる。私たちに必要なことを予め見て備えてくださる。それが摂理です。私たちは先が見えないためにすべてが偶然のように見えますが、神は先を見ておられます。
しかも「父親らしい御手によって」すべてはもたらされる。父の手は、子供の将来を見据えて働きます。子供たちに良いものを与えようと懸命になって働きます。時に父の手は、子供の行く手を阻みます。危険を見てとり、そっちへ行ってはいけないと厳しく押し止めます。それでも父の大きな手は子供を優しくしっかりと抱きしめます。父親らしい御手とは、そのような天の父の「熟慮と意志」(ラテン語訳)に他なりません。
木の葉のように右に左に私たちの心が揺れ動く時にも、
万事は私たちの父の絶対的な御支配のもとにコントロールされています。
さて、そのような父の御手による創造と摂理の御業は、私たちにどのような信仰の「益」をもたらすのでしょう。信仰問答は、三つのことをあげています。
第一に、「逆境においては忍耐強く」なることです。いくつもの逆境や自分自身の弱さと直面しながらも、父の愛に支えられ続けた使徒パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ことを学びました(ローマ5:3-4)。自己中心でわがままな罪人にとって、思い通りにならない経験をすることは大切です。忍耐することの中で人は謙遜にされ、御父への信頼を学ぶのです。
そのようにして「順境においては感謝」する心も生まれてくるのでしょう。悲しみだけでは人間はつぶれてしまいます。苦悩を突き破るような歓喜の時にはもちろん、平凡でも穏やかな日常に感謝することで、天の父への信頼はいっそう深められて行くはずです。
このようにして培われた現実に働く父の御業への信頼は、やがて「どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできない」という将来にわたる確信へと私たちを導きます。これも先ほどのパウロの言葉です(ローマ8:38-39)。万物を超えた神の不動の力と愛への信頼の言葉です。
旧約聖書の「ヨブ記」という書物には、この世の悲惨をつかさどるサタンでさえ、神の許しが無ければ何もできないと記されています(1:6-12)。まして「あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできない」のです。出口の見えない苦しみの中で悶々とした日々を過ごしている時にも、あるいは木の葉のように右に左に私たちの心が揺れ動く時にも、万事は私たちの父の絶対的な御支配のもとにコントロールされています。
創造と摂理の御業をとおして、私たちはそのような“父”を知って行くのです。
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