キリスト教信仰は、父と子と聖霊なる神への信仰です。今回は、この“三位(さんみ)一体”と呼ばれる聖書の教理と、その意味を御一緒に学びましょう。
聖書は、言わば神が命をかけてお示しになった遺言書(Testament)であり、約束の書です。そのような聖書の福音において約束されていることすべて(問22)の要約が、“使徒信条”と呼ばれる信仰告白文なのでした(問23)。よく御覧になるとわかるとおり、この使徒信条は大きく三つに分けることができます。「父なる神」と「子なる神」と「聖霊なる神」を信ず、とあるとおりです。聖書の約束とは、このような神の御業全体のことです。
さらに、『信仰問答』は、この神の御業を単に創造・贖い・聖化と述べるだけではなく「わたしたちの」という言葉を付けています。もし神の業が自分とは何の関係もないものだとしたら、たといそれがどんなにすばらしくとも決して福音とはならないでしょう。しかし、父なる神による業は、単に宇宙や自然をお造りになっただけではない、永遠の御計画と愛に満ちた配慮とによる「わたしたちの創造」なのです。子なる神が十字架上で御自身を犠牲にされたのは何か別の目的ではない、「わたしたちの贖い」のためです。そして、聖霊なる神が罪を洗い清めて新たにしてくださるのも、誰か特別な人たちに対してなのではない、「わたしたちの聖化」のためなのです。
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神は私たちをこの世に誕生させる必要もなければ、自業自得で罪に沈んだ私たちを救う義務もありません。まして、わざわざ私たちの罪を洗い清めて造り直す必要などどこにもないのです。にもかかわらず、父と子と聖霊なる神は、そのようにしてくださった。それは、「わたしたち」を神が愛してくださったからです(1ヨハネ4:10)。これが、聖書の約束の言葉であり福音なのです。
この約束をくださる神への信頼に導かれた時、人はこの方(父・子・聖霊)の御名によって洗礼を受けます(マタイ28:19)。洗礼とは、この父・子・聖霊なる神に自分自身を委ねることに他なりません。そして、その中に憩うことが“ただ一つの慰め”であると、私たちは学んだのでした。事実、問24の答えは問1で述べられた父・子・聖霊の御業の要約になっています。聖書の約束も福音も、私たちの“慰め”もまた、三重のものです。それは、聖書が証言する神の存在そのものが、父と子と聖霊と三つに言われるからです。
聖書の約束も福音も、私たちの“慰め”もまた、三重のものです。
それは、聖書が証言する神の存在そのものが…三つに言われるからです。
それにしても、神はただ御一人(申命記6:4)のはずなのに、なぜ父・子・聖霊と三通りに呼ばれるのでしょう。御存知のとおり、これが、キリスト教において根本的に重要かつ最も説明の難しい“三位一体”と呼ばれる教理です。父・子・聖霊という三つの「位格(ペルソナ)」がありながら「唯一まことの永遠の神」であると言う、人間の頭では理解しがたい聖書の教理です。
『信仰問答』は、この不可思議な教えを実にシンプルに「神が御自身について…御言葉において啓示なさったから」と述べています。これは実に賢明な答えだと思います。神御自身が、聖書においてそのように自己紹介なさった。これ以外に説明の仕様がないからです。その人がどういう人か、その人自身が自己紹介をする。たといそれがどんなにおかしくて理屈に合わなくとも、私たちとしてはそれを受け止める以外にありません。啓示とは、そういうものです。三位一体は、神の自己啓示なのです。
しかしながら、この三位一体が含蓄している事柄は、実に深いと思われます。昔の神学者たちは、この三位一体の教理を自然や人間の成り立ちとの類比で説明しようとしました(例えば、精神・知・愛)。被造世界には創造者なる神の御性質が刻まれているはずだと信じたからです。
さらに、「一」という数字は一つの焦点に向かって収斂して行く、そのような方向性を持つ数字です。逆に、「三」とは、広がりや豊かさを示す数字と言えるでしょう。聖書が証言する神というお方は、唯一の神でありながら同時に三の神である。根源的でありながら限りなく豊かである。一致と調和を志向しながらあらゆる多様性を包含する。そのような性質を持つお方なのです。
ですから、この神を、聖書を通して深く知り信じて行くことは、ただ一人の神へと向かう一途な姿勢と同時に、自分とは異なる人々をどこまでも包み込んで行く愛の心へと導かれるのです。
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