山下正雄(ラジオ牧師)
メッセージ: 「共にいる神との出会い」
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教美術の題材にもなり、また映画にも脚色されるモーセの生涯ですが、そのモーセが若かりし頃、殺人の罪を犯したことを知る人はあまりいないかもしれません。
エジプト人から虐待されるヘブライ人を助け出そうとして、そのエジプト人を殴り殺してしまったのです。人助けのためにしたことなのですから、その動機は純粋であったかもしれません。しかも、それは単なる人助けというよりは、エジプト社会に対する抗議でもあったかもしれません。
そもそも、これはあくまでも突発的な事件で、モーセには人を殺そうなどという思いは最初からなかったのかもしれません。今の時代なら殺人罪ではなく傷害致死罪ということになるのでしょう。
モーセの罪状がどうあれ、モーセにとってこの事件がもたらしたものは決して小さくはなかったはずです。逃亡生活を余儀なくされたモーセは、逃亡先で様々な思いをめぐらせたに違いありません。自分の軽はずみな行動を悔やんだかもしれません。あるいは正義のための自分の戦いがいかにちっぽけなものであったのか、思い知らされたかもしれません。あるいはまた、神はなぜ社会の不正を見逃し、不正と戦う自分を助けてくださらないのかと自問自答したかもしれません。
こうした様々な思いを抱きながら時を過ごしてきたモーセを、神はご自分の働きのために召し出されたのです。
ある日のこと、飼っていた羊の群れを荒れ野の奥まで追って行くと、不思議な光景を見たのでした。柴が燃え立っているのに、その柴は燃え尽きません。その燃え立つ柴の間から、モーセは神の声を聞いたのです。それはエジプトで苦しむご自分の民イスラエルを救い出そうとする神の声でした。しかも、その救いの業を、モーセを通して行おうと、モーセを召し出す神の言葉だったのです。
この光栄な務めへの招きに対して、モーセが答えた言葉はとても消極的でした。
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
これはただの謙遜ではないでしょう。モーセは本当にそう思ったに違いありません。世間はあの事件のことをすっかりと忘れかけていたころです。もうみんながこのまま事件のことを忘れ去り、ただ自分の記憶の中だけにしまっておけば、妻や子どもたちと小さな幸せの中で暮らしていけたのです。どうして、再び大それたことを引き受けなければならない道理があるのでしょう。第一、あの事件で失敗をした自分にそれほどの大きな働きをするだけの指導力などあるとは思えません。
その臆するモーセに対して語りかけた神の言葉はこうでした。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
果たしてこの言葉はモーセにどう聞こえたのでしょうか。「神が必ず共ににいてくださる」という言葉は、モーセにはリアリティのない空虚なものと聞こえたでしょうか。そうではないでしょう。逃亡生活の中でモーセは大きなことの中にも小さなことの中にも、神が共にいてくださる生活を実感していたに違いありません。今まで共にいて下さった神が、必ず共にいてくださることを約束していてくださっているのです。この必ず共にいてくださる神が、モーセの生涯を支えたのです。
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