
申成日(広島教会牧師)
メッセージ:喜んで死を迎える感謝
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会の牧師、申です。
10月の最後の日曜日を迎えました。今日は、「喜びの死」について考えたいと思います。
わたしたちは、たとえ自分が憎んだ人が死んでも、それを素直に喜ぶことができないと思います。それだけ、死は悲しいことであるし、何も取り返すことができない事だからです。
しかしそう言いながら、「喜びの死」があるとするならば、どんなことがあるでしょうか。家族のために死ぬこと、国のために死ぬこと、多くの命を生かすために死ぬことなどで、「喜んで死を迎える」と言うこともあるし、この世の苦しみ、悲しみから抜け出したく、自らやってはいけない選択をすることも、「喜びの死」と言うかもしれませんが、今日の話は、そのようなことではありません。
それは、神様の前に正しく自分に与えられた使命を全うし、神様の御国に入る希望を持ちながら死を迎えることです。だから、キリスト教の葬儀は、ただ悲しみに埋もれる葬儀ではありません。そこには、一人の人の人生を正しく導いてくださった神を賛美する歌があり、その神が備えてくださった、神の国に入る喜びと感謝、希望があります。
わたしは、広島教会で数多く葬儀礼拝を執り行いました。亡くなった方のご遺族の中には、もちろんクリスチャンもいますが、クリスチャンではない方もおられます。中には、初めて教会における葬儀に参加された方も結構多くおられます。
そのようなご遺族の方々と、火葬場において少し話を伺うことがありますが、よくおっしゃることは、キリスト教の葬儀に対する関心です。他の葬儀とは違って、悲しみだけではなく、明るさや希望があって、牧師から亡くなった方の話を聞くことができるので、いろいろな面でとても好印象を受けられたという話が多いです。
それは、当然そうだと思います。亡くなった方とはもうこれ以上語り合うことができませんし、お顔を見ることもできなくなって、寂しさや悲しみもありますが、ただそれだけではなく、天国の希望をもって亡くなった方ですから、喜びと希望を伝えることができます。極端な挨拶かもしれませんが、「天国に入っておめでとう!」と言う人もいます。
今から10年ほど前に、父が死を迎えました。父は、母が認知症を患って先に施設に入り、その後を追う形で同じ施設に入って、二人で4年間、施設で過ごしました。日本にいるわたしに、父が危篤である知らせがあったので、駆け付けて帰国し、施設の近くに宿を取り、最後の一週間を毎日父と母が居る施設に通いました。共に讃美歌を歌い、共にいろいろな話を語り合いました。わたしにとって、親と最も長く過ごした一週間でした。
土曜日になって、日本に帰らなければならなく、父と最後の挨拶をしました。「お父さん、日本に帰るよ。これが最後になるかもしれません。天国で会いましょう。」そのようにして、日本に帰りましたが、父はその翌週、天に召されました。いろいろと寂しい思いはありますが、最後に父と過ごした一週間と、父と交わした最後の挨拶が、とても嬉しかったです。
天国への希望があることがこれほど素晴らしいことなのかを、切実に感じました。明日への希望がなければ、今日の苦しみも絶えることができません。死ですべてが終わりでなく、天国における希望があるとするならば、死をも、喜びと感謝で迎えることができます。
明日は何が起こるかまったく分からない人生ですが、毎日感謝して生きる一日を過ごしましょう。
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