山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:信仰が人を苦しめるとき(マタイによる福音書23:13-24)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
信仰というと、本来は人を励まし、支え、生かすもののはずです。信じることで暗闇の中に光が差し込み、沈んだ心が引き上げられ、人を生かす力となることが期待されています。
しかし、現実はどうでしょうか。一生懸命に信じようとすればするほど、なぜか心が苦しくなる。教会の決まり事や、クリスチャンとしての「正しさ」に縛られて、息苦しさを感じてしまう。あるいは、周囲の期待に応えようとして疲れ果ててしまう……。そんな経験はないでしょうか。
実はイエス・キリストご自身が、「信仰が人を苦しめてしまう危険」について、とても厳しい言葉で語られた箇所があります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書23章13節~24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」
今お読みした箇所は、イエスが十字架にかけられる直前、エルサレムで語られた教えです。
ここに登場する律法学者やファリサイ派の人たちは、決していい加減な人たちではありませんでした。神の律法を大切にし、人々に神の教えを伝える、いわば信仰の専門家、案内役でした。
問題は、律法学者やファリサイ派の人たちが「信仰を大切にしたこと」ではありません。信仰をどう扱ったか、そこに問題がありました。
そこでイエスは信仰が歪んでしまった時の4つの危うい姿を指摘されます。
イエスはまず、こうおっしゃいました。
「(あなたたちは)人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。
本来、信仰は人を神へ導く扉であるはずです。ところが、正しさを独占し、「こうでなければならない」と縛ることで、人が神に近づこうとする道をふさいでしまい、しかも自分たち自身も、その国に入ろうとしていないというのです。
信仰が、命への道ではなく、人を選別する壁になってしまう、イエスはその危険を鋭く指摘されました。それは天の国を閉ざしてしまう歪んだ信仰です。
次にイエスは、改宗者を熱心につくる姿勢について語られます。遠くまで出かけ、時間も労力も惜しまない。一見、とても熱心な信仰です。
しかしその結果、その人を「自分たち以上に不幸な者にしてしまう」と言うのです。数や成果が目的になったとき、人は神ではなく、組織や理想のために利用されてしまいます。それは人を利用する歪んだ信仰です。
さらにイエスは、誓いについての議論を取り上げます。
「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」。
一見、細やかな信仰議論のようですが、実はそこには、神に対する真実さよりも、「どうすれば責任を回避できるか」という思考がありました。それはごまかしを生む歪んだ信仰です。
そして、最も有名なのが23節以降です。ここでは本質を見失う歪んだ信仰が指摘されます。
「(あなたたちは)薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」。
イエスは、十分の一献金そのものを否定しているのではありません。問題は、庭に生えている小さなハーブまで細かく計算して捧げているのに、信仰の核心を見失っていることです。
「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」
これは、取るに足らない小さなものには神経質なのに、本当に重大なことを平気で見逃してしまう姿を表した、とても痛烈な皮肉です。
では、神は何を喜ばれるのでしょうか。
イエスがここで示しておられるのは、完璧なチェックリストをこなすことではありません。イエスが守ろうとされたのは「神と人との温かい関係」です。
私たちは、知らず知らずのうちに「できている。できていない」という物差しで、自分や他人を測ってしまいがちです。
「あの人は礼拝に来ていないから熱心じゃない」「自分は聖書を毎日読めていないからダメなクリスチャンだ」……。そんなふうに自分を責めたり、誰かを裁いたりするとき、私たちの信仰は、人を生かす力を失い、人を苦しめる重荷へと変質してしまいます。
もし今、あなたが信仰のせいで息苦しさを感じているなら、どうか思い出してください。イエスは、あなたが「らくだを飲み込む」ような無理をすることを望んではいません。むしろ、その重荷を一緒に背負い、あなたの心を解き放ちたいと願っておられます。
信仰は、人を縛る鎖ではありません。人を生かし、回復させるためのものです。
イエスの厳しい言葉は、私たちを打ちのめし、破壊するためのものではありません。それは、偽りの姿を剥ぎ取り、私たちが「本来の姿」へ回復するための愛からくる言葉です。
信仰が人を苦しめるとき、そこには「愛」と「憐れみ」が欠けています。どんなに正しい教理を並べても、そこに目の前の人を慈しむ心がなければ、それはイエスが嘆かれた「偽善」になってしまいます。
しかしもし私たちが自分の弱さを認め、神の圧倒的な憐れみに立ち返るなら、信仰は再び「人を生かす力」へと変わります。
「正しくあろう」とする熱心さが、「愛したい」という願いに支えられるとき、そこには自由と喜びが生まれます。
信仰が人を苦しめるとき、イエスはわたしたちを立ち止まらせ、問い直してくださいます。その先に、人を生かす信仰への道が、必ず備えられています。
今日の聖書の言葉が、信仰を縛る重荷からあなたを解放し、もう一度、あなたを神の憐れみと誠実さに立ち返らせるきっかけとなれば幸いです。
あなたの歩みが、重荷としての信仰ではなく、あなた自身と、あなたの周りの人々を輝かせる「命の道」となりますように。









