聖書を開こう

神がいちばん大切にしていること(マタイによる福音書22:34–40)

放送日
2026年1月22日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:神がいちばん大切にしていること(マタイによる福音書22:34–40)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「結局、いちばん大切なことは何だろう」と、ふと立ち止まって考えたことはありませんか。忙しい毎日の中で、私たちは常に優先順位を迫られています。仕事、家庭、健康、人間関係。どれも大切で、どれもおろそかにできません。

 それは信仰の世界でも同じかもしれません。「聖書には守るべきことがたくさんあって難しそう」「立派な人間にならなければ神様に喜ばれないのではないか」。そんなふうに感じている方もいらっしゃるでしょう。

 今日ご紹介する聖書の箇所は、まさにその問い、「一番大切なことは何か」という問いに、イエス・キリストが真っ向から答えられた場面です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書22章34節~40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 この出来事が起こったのは、イエスがエルサレムに入城した後、十字架にかかる直前の緊張した時期でした。エルサレムの神殿で、イエスは次々と敵対的な質問を浴びせられていました。「ローマ皇帝に税金を納めるべきか」「復活なんて本当にあるのか」。

 そうした論争が続く中で、律法の専門家が新たな質問を投げかけました。

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 当時のユダヤ教では、律法には613もの戒めがあると考えられていました。その一つ一つは神から与えられた大切な教えです。しかし、その多さのために、「何が本当に大切なのか」が見えにくくなる危険もありました。その中で「最も重要な掟はどれか」という問いは、学問的な議論のテーマでもありました。しかし、同時にイエスを試す意図も含まれていました。もしイエスが一部の掟を軽視するような答えをすれば、攻撃の材料にできるからです。

 この問いに対して、イエスが答えられたのは、驚くほどシンプルな言葉でした。

まず第一に、イエスは申命記6章5節を引用します。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

 これは「シェマ」と呼ばれる、ユダヤ人が毎日唱える祈りの言葉でした。

 ここで注目したいのは「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし」という表現です。これは、感情だけではなく、意志も、知性も、つまり私たちの存在全体をもって神を愛するということを意味しています。

 神への愛は、日曜日だけのものでも、気が向いたときだけのものでもありません。生活のすべてを貫く、全人格的な応答です。私たちの「意志」も、「知性」も、「存在そのもの」も、すべてを注ぎ込んで神に向き合うということです。形式的に儀式をこなすことではなく、一対一の、生きた人格的な関わりを神と持つこと。それが何よりも大切だ、とイエスはおっしゃいます。

 しかし、イエスはそこで話を終えませんでした。聞かれてもいない「第二の掟」についても語られます。

 「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」

 これはレビ記19章18節からの引用です。

 ここでとても興味深いのは、「自分のように」という言葉です。自分が自分を愛することは、当たり前のことで、簡単なことのように感じます。しかし、自分を愛することは、しばしばただの自己陶酔やわがままな生き方に陥ってしまうことがあります。

 また、反対にありのままの自分を受け入れることが難しくて、自己嫌悪になりがちなのも私たちです。自分への理想が高すぎたり、他人からの期待が大きすぎるとき、自分すら愛することが難しくなってしまします。

 イエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とヨハネによる福音書の中でおっしゃいました(ヨハネ13:34)。神に愛されている自分を正しく受け入れてこそ、初めて隣人を本当に愛することができるということです。神の愛を知って、初めて、自分がどう扱われたいかに気が付きます。その同じ思いやりを隣人にも向けなさいとイエスはおっしゃいます。

 そしてイエスはこう締めくくります。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」。つまり、聖書全体のメッセージは、この二つの愛に集約されるというのです。

 細かな規則や正しさよりも先に、神との関係、そして人との関係が問われています。

 現代を生きる私たちも、知らず知らずのうちに、「何ができているか」「できていないか」で自分を測ってしまいます。しかしイエスは、「誰を愛しているか」「何を大切にして生きているか」と、問いの向きを変えてくださいます。

 掟や戒めは、私たちを縛るための重荷ではありません。それは神の御心を示す道しるべです。神を愛し、隣人を愛する。この縦と横の関係が、信仰の核心なのです。

 では、このメッセージは、今を生きる私たちに何を語りかけているでしょうか。

 信仰が「難しく」感じられるとき、多くの場合、ルールや義務が前面に出てしまっています。「ちゃんと祈れているだろうか」「もっと聖書を読まなければ」「これで神に喜ばれているだろうか」。そうした不安が、信仰を息苦しいものにしてしまうのです。

 しかし、イエスは、問いを立て直すように招いています。「何を守れているか」ではなく、「誰を愛しているか」と。

 神を愛し、隣人を愛する。このシンプルな一点に立ち返るとき、信仰は生き生きとしたものになります。

 具体的には、どういうことでしょう。たとえば、一日のどこかで神を思い出す時間を持つこと。朝でも、通勤中でも、寝る前でもかまいません。「今日も生かされている」と感謝すること。それが神を愛するということの始まりです。

 そして、その神の愛の気がついたとき、すぐそばにいる人を大切にすることです。家族、同僚、友人。目の前の人に、思いやりをもって接すること、それが隣人を愛するということです。

 完璧である必要はありません。大切なのは、方向です。神に向かい、人に向かうその姿勢こそが、神の喜ばれることなのです。

 イエスは、難解な答えを示しませんでした。むしろ、誰にでも分かる核心を示されました。神がいちばん大切にしていること。それは、神を愛し、人を愛することです。

 この招きは、今日も私たちに向けられています。どんなに忙しくても、どんなに弱くても、私たちは愛することができます。そして、その愛こそが、すべての掟を満たす道なのです。

 今日一日、この問いを心に留めてみてください。「私は誰を愛しているだろうか」と。その問いの中に、神の声が響いているはずです。

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