山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:復活なんて信じられる?―イエスの答え(マタイによる福音書22:23–32)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「人は死んだらどうなるのか」という問いに対して、どんな答えを持っていらっしゃるでしょうか。「死んだら、それで終わり」と多くの人が、心の奥底でそう信じています。
確かに、一般的には生命を維持するための不可欠な機能が不可逆的に停止することと定義されます。これはあくまでも生物学的な意味での「死」の定義です。
しかし、「死」は単に生物学的な問題ばかりではありません。宗教や哲学にとっても大きなテーマです。現代に生きる私たちにとっても、「死とは何か」という問いは決して他人事ではありません。葬儀の席、病室、あるいは夜ひとりで考え込むとき、死の現実は突然、私たちの前に立ちはだかります。「死んだら、それで終わり」とクールに考えている人でも、自分に差し迫る死や身近な人の死に対して、そんなにクールでいることはできません。
キリスト教会は「体のよみがえり、復活信仰」を持っていることが大きな特徴の一つです。しかし、科学が発達し、合理性が尊ばれる時代にあって、「死者が復活する」という信仰は、非現実的に聞こえるかもしれません。実はイエスの時代にも、同じ疑問を、しかも知的に、論理的に突きつけた人々がいました。それはサドカイ派に属するの人々でした。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書22章23節~32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
まずはじめに、この論争の背景を整理しておきたいと思います。復活信仰をめぐってイエスに詰め寄ったのは「サドカイ派」と呼ばれる人々です。サドカイ派はいわば「保守的なエリート層」でした。祭司階級を独占し、政治的にも経済的にも力を持っていました。その特徴は、「モーセ五書(旧約聖書の最初の5巻)」だけを絶対の権威としていたため、そこに明確に記されていない死後の世界や魂の不滅、天使の存在などを一切信じないという徹底したリアリズムにありました。
対照的に、前回も登場したファリサイ派は復活を信じていました。そしてイエスもまた、復活を宣べ伝えていました。サドカイ派がイエスに近づいてきたのは、真理を求めてではなく、イエスを論破し、その教えの矛盾を暴こうするためでした。
サドカイ派が持ち出した質問は、レビラート婚という当時の慣習に基づいていました。申命記25章に定められたこの制度は、兄が子を残さずに死んだ場合、弟がその妻をめとり、兄の家系を絶やさないようにするという法制度です。
サドカイ派の人々は極端な例を作り上げます。「七人の兄弟がいて、長男は子どもを残さずに亡くなったために、弟たちは兄の妻と結婚して兄の家系を残そうとしますが、全員が子どもを残さずに死んでしまいます。とうとう、その女性も亡くなってしまいます。復活の時、この女性は誰の妻になるのか」。この質問は、復活の教えが論理的に破綻していることを示そうとする、巧妙な罠でした。
しかし、イエスの答えは彼らの想像をはるかに超えていました。
イエスは二つの重要な指摘をなさいます。
第一に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と。これは厳しい叱責です。彼らは宗教的指導者を自認していたのに、神の本質を理解していないという指摘です。
第二に、イエスは復活後の世界の性質を明らかにします。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」。この世の結婚制度は、死によって命が途絶える世界に必要な神の恵みの制度です。しかし、復活の世界では死がありません。したがって、この世の結婚の枠組みで復活を理解しようとすること自体が、根本的な誤解なのです。
さらにイエスは、復活を否定するためにモーセ五書に訴えた彼らに対して、同じモーセ五書を引用して答えます。出エジプト記3章のモーセの召命の場面にはこう書かれています。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
この現在形の表現「~である」が鍵です。神がモーセに語られた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに何百年も前に死んでいました。しかし神は「わたしは彼らの神『であった』」とは言わず、「わたしは彼らの神『である』」とおっしゃいます。神は死者の神ではなく、生きている者の神だからです。
つまり、神との関係において、アブラハムたちは今も生きています。全能の神が一度結ばれた愛の契約は、死によって断ち切られることはありません。神の目から見れば、数千年前の先祖たちも今、神と共に生きている。復活とは、この「神との永遠の絆」の結果に他なりません。
さて、この物語は二千年前の古めかしい論争に過ぎないのでしょうか。いいえ、これは現代を生きる私たちへの、最も情熱的な神からの語りかけです。
現代の私たちは、ある意味で皆「サドカイ派」に似ています。目に見えるもの、数値化できるもの、科学で証明できるものだけを信じ、死はすべてを無に帰す「壁」だと考えています。
もし死が終わりなら、私たちの人生はどれほど虚しいものでしょうか。どれほど愛し合っても、最後は虚無に飲み込まれるだけなら、この世の苦労に何の意味があるのでしょうか。
しかし、イエスは今日、あなたに語りかけます。
「あなたの命を、あなたの小さな理性の枠に閉じ込めないでほしい。神の力を侮らないでほしい」と。
復活を信じるとは、単に「死んだ後、どこか良い場所に行く」という気休めではありません。それは、「この私を造り、愛してくださっている神は、死という最大の絶望さえも軽々と乗り越えるお方だ」と信頼することです。
愛する人を亡くし、暗闇の中にいる方がいらっしゃるかもしれません。自分の人生の終わりを意識し、恐れを抱いている方がいらっしゃるかもしれません。
イエスはおっしゃいます。「神は、生きている者の神だ」と。
神にとって、あなたは「かつて存在した人」にはなりません。あなたは永遠に、神の愛の対象として「今、生きている存在」です。復活とは、神があなたを指差して、「私はあなたを、決して死の中に置き去りにはしない」と宣言される愛の極みです。
「復活なんて信じられない」。そう思うのは、あなたが誠実に生きている証拠かもしれません。しかし、その誠実な理性の向こう側に、あなたの想像を絶する「神の力」があることを、どうか忘れないでください。








