山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:ロバに乗って来る王さま(マタイによる福音書21:1~11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「王さま」と聞くと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。きらびやかな衣装、きらめく王冠、群衆の喝采を受けながら馬にまたがって颯爽と現れる姿でしょうか。力と威厳、そして恐れられる存在。多くの人がそんなイメージを抱くかもしれません。
しかし、聖書が語る王は、その常識を根底から覆します。きょう取り上げようとしている箇所には、ロバに乗った王が登場します。力ではなく平和を象徴し、威圧ではなく招きによって人を導く王です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書21章1節~11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
きょうの物語の舞台は、過越祭を目前に控えたエルサレムです。イスラエルの民が一年で最も熱気に包まれる季節。宗教的熱狂と政治的期待が渦巻く中で、人々はローマ帝国の圧政から解放される日を夢見ていました。
ところが、イエスはその期待に応えて剣を掲げるでもなく、民衆を扇動するのでもありません。それでもなぜイエスはエルサレムを目指したのでしょうか。聖書の預言は語ります。
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。
イエスはこのゼカリヤ書9章9節の預言を自分の姿で実現させるために、歩みを始めました。
イエスはエルサレム入城に先だって、弟子たちにお命じになりました。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」
もし誰かに問いただされても、「主がお入用なのです」と言えばよい、とおっしゃいます。
ここには、イエスの権威が静かに示されています。王の到来は、神が定められた時に、神の方法で始まっていきます。
本来、王であるならば豪華な鞍を備えるはずです。しかし、イエスの座られたのは、弟子たちが身に付けていた粗末な衣でした。そこに、王の謙遜が見えます。イエスは人間の栄誉を求めておられません。人間の罪と苦しみを背負うために来られたお方だからです。
イエスがエルサレムに入られると、人々は大歓声で迎えました。衣を道に敷き、木の枝を振り、叫びました。
「ダビデの子にホサナ!」
これは単なる歓迎の言葉ではありません。神に救いを求める叫びであり、メシアを崇める言葉です。しかし、彼らは本当にイエスがどのような王であるかを理解していたのでしょうか。
力強い解放者、ローマを倒す英雄、政治的救世主…。多くの者はそんな期待を抱いていたのでしょう。彼らの「ホサナ」は、神の御心ではなく、自分の願望を叶えてくれる王への叫びでした。この期待と現実のずれが、後に「十字架につけよ!」という叫びに変わっていきます。イエスが示した王の姿は、武力ではなく、従順と犠牲によって救いを成し遂げる王の姿でした。
それにしても何故ロバなのでしょう。古代の王は勝利を誇示する時には馬に乗って現れました。威圧感のある姿です。
それに対してロバにのった王の姿は明らかに違います。柔和な王、罪人を招き、傷ついた者を抱きしめる王。その姿を、ロバという選択が鮮やかに物語っています。
イエスは、強さで支配する王ではありませんでした。弱さを引き受け、涙を流し、誰よりも低くなられた王でした。ロバに乗るという姿は、力の誇示ではなく、神の愛の深さを示す印です。
私たちは、どのような王を求めているでしょうか。自分の願いを叶える力強い存在でしょうか。それとも、真実を告げ、生きる方向を示し、罪から救うために来られたお方でしょうか。
多くの人は、人生にさまざまな「王」を迎えて生きています。成功、地位、安心、快適さ、他人からの評価。気付かないうちに、それらが人生の中心に座ってしまうことがあります。けれども、それらは決して私たちを救いません。手に入れた瞬間に輝いて見えるものほど、時間が経つと色褪せ、次なる欲望を生み出します。そして心は疲れ果て、魂は渇きます。
そんな私たちの前に、イエスが来られます。馬ではなく、ロバに乗って。力で押し込むのではなく、静かな足取りで近づき、心の扉を叩いておられます。ここに神の愛の姿があります。強制ではなく招き。威圧ではなく慈しみ。命令ではなく、共に歩む姿勢。
イエスを迎えるとはどういうことでしょうか。それは願いを叶えてもらう存在として利用することではありません。私たちの罪と弱さ、根本から神に背を向けてきた歩みを認め、心を明け渡すことです。自分の期待に沿う王ではなく、神の御心を行う王として受け入れることです。
エルサレムの群衆は「ホサナ!」と叫びながら、数日後には「十字架につけろ!」と声を変えました。なぜなら、彼らの期待とイエスの姿が一致しなかったからです。しかし、神は私たちの願望に仕える召使いではありません。神の救いは、もっと深く、もっと根源的な敵、罪と死を打ち破りました。だからこそ、今も救いが生きています。
あなたの人生にも、イエスはロバに乗って来られます。派手な音楽も、強制力もありません。静かに、しかし確かな権威をもって、「私について来なさい」と語っています。
ロバに乗る王を、あなたの人生にお迎えしましょう。そのとき、あなたの歩みは、新しい一歩へと変わっていきます。恐れではなく希望へ。混乱ではなく平安へ。そして、あなたの人生が、この王の栄光を示す証しとなるのです。







