山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:必死の叫びに立ち止まるイエス(マタイによる福音書20:29-34)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちの人生には、思わず声を上げたくなるほどの苦しみや、出口の見えない暗闇があります。誰にも届かないと思える叫びを心に押し込めながら、生き抜かなければならない時があります。しかし、そんな叫びにこそ耳を傾けてくださるお方がいます。今日の聖書の物語は、そのことを力強く語りかけてくれます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書20章29節~34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
今お読みした箇所はイエスがエリコの町を出られるときのことでした。道ばたに座っていた二人の盲人が、必死に叫び声をあげます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。
この叫びに、イエスは足を止められました。群衆がどれだけ騒がしかったとしても、目的地へ急いでいたとしても、この必死の叫びを聞き逃すことはなさいませんでした。
この出来事の少し前、イエスは弟子たちにご自分がエルサレムで捕らえられ、苦しみを受け、命を捨てることを予告しておられました。イエスが盲人たちの叫びに耳を傾けられたのは、まさに十字架へ向かう重い道のりの途中でした。ここには、神が最も弱い者に寄り添う深いあわれみが示されています。
エリコの町は、エルサレムへ向かう巡礼者が必ず通る道でした。祭りの時期には群衆が押し寄せ、道ばたは人であふれました。その喧騒の中で、盲人たちの叫びが群衆にとって迷惑に聞こえたのも理解できます。「黙れ」と人々は叱りつけました。しかし、この二人は叫ぶのをやめません。むしろ、さらに強く、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と声を上げ続けました。
彼らは何を信じていたのでしょうか。「ダビデの子」という呼び方は、メシアへの信仰を表す呼び名です。つまり彼らは、イエスが神の救いをもたらす約束の救い主であると信じていました。目は見えなくても、心の目は真実を見抜いていたのでしょう。この二人の叫びは信仰の叫びでした。
人々は彼らを黙らせようとしましたが、イエスは違いました。イエスは立ち止まり、「何をしてほしいのか」と問いかけられます。なんと優しい問いでしょうか。イエスはすべてをご存じであるお方ですから、この二人が何を願っているのかは、すでに知っておられたはずです。しかし、イエスはあえて本人の口から願いを語らせ、共にその願いに向き合ってくださいます。人々の必要に耳を傾け、仕える僕としての姿勢を示されます。
盲人たちは答えます。「主よ、目を開けていただきたいのです」。願いは簡潔で明確でした。イエスは深く憐れまれ、彼らの目に触れられました。その瞬間、彼らは見えるようになり、イエスに従っていきました。
この物語には、私たちの人生を照らす大切な教えが詰まっています。
第一に、必死の叫びこそ、神の心に届きます。取り繕った祈りではなく、心の底からの叫びです。それは半信半疑の祈りではありません。心からの信頼から出る祈りです。
第二に、人の声に惑わされてはなりません。「黙っていろ」と言われても、叫び続ける信仰に、主は応えてくださいます。
確かにイエスは、一方では言葉数が多ければ聞かれると思う祈りに対しては警告されました(マタイ6:7-8)。祈りは神を説得して願いを聞かせることではないからです。しかし、他方で諦めずに祈り続けることの大切さも教えておられます(ルカ11:5-9、18:1-7)。なぜなら、神は本当の必要に対して速やかに応えてくださるお方だからです。
第三に、癒された盲人たちがイエスに従ったように、私たちも与えられた恵みに応えて歩む必要があります。この二人の盲人たちの祈りは、決して苦しい時だけの神頼みではありませんでした。
そして忘れてはならないのは、イエスが立ち止まられたのは、この二人が偉かったからではありません。弱く、貧しく、社会から見放されていた彼らに、イエスの心が動かされたからです。イエスは飼い主のいない羊のように弱り果てた私たちをご覧になり、深く憐れんでくださるお方です(マタイ9:36)。神は弱さを恥とされません。むしろ、弱さを通して働かれます。私たちが弱さを隠さずに祈るときこそ、神の力は最も豊かに現れます。
祈っても答えがすぐに見えないとき、私たちは失望しがちです。しかし、盲人たちが長い暗闇の末に癒しを受けたように、神には時があります。沈黙の中にも神の働きは進んでいます。あなたの祈りも必ず主に届いています。どうか諦めないでください。
今日、ラジオの前で涙をこらえている方がいるかもしれません。声にならない苦しみを抱え、心の底で叫び続けている方がいるかもしれません。その叫びは、主に届いています。あなたが語る小さな祈りも、深い嘆息も、主は聞いておられます。
どうか、もう一度イエスの名を呼んでください。盲人たちのように、弱さのまま、痛みのまま、ありのままの姿で叫んでください。イエスはあなたのそばで立ち止まり、あなたの願いを聞き、あなたに触れてくださいます。
そして、あなたが主に従って歩むとき、暗闇を照らす光が道を導いてくれます。あなたの祈りは無駄ではありません。あなたの涙は流れっぱなしではありません。主は必ず新しい希望を与えてくださいます。
最後に短く祈ります。
天の父よ、今ここにいる一人ひとりの心の叫びを聞いてください。弱さをあわれみ、必要に答え、暗闇に光を照らしてください。疲れた者には力を、涙する者には慰めを、迷う者には導きを与えてください。主イエスが盲人に立ち止まられたように、今日もどうか一人ひとりに近づいてください。
どうか今日も、主があなたと共におられますように。主があなたの歩みを守り、平安を満たしてくださいますように。そして、あなたの人生に豊かな希望が満ちあふれますように。アーメン。









