山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:しるしを求める心と見逃されるしるし(マタイ16:1-4)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「これって、なにかのサインなんじゃないか」と、そんなふうに感じたことはないでしょうか。
たとえば、偶然にしてはできすぎているような出来事が立て続けに起きたとき。あるいは、夢に見た内容と現実が妙に重なるような体験をしたとき。「これは神様からのしるしなのではないか」と思ったことのある方もいるかもしれません。
人は昔からそうした「しるし」を求めてきました。この世界の背後にある見えない力、それが神の力なのか、運命なのか、あるいは自然の摂理なのか、そういったものが、自分に何かを伝えようとしているのではないか、という思いが心をよぎります。
今日取りあげようとしている聖書の個所には、まさにそうしたしるしを求める人々と、その人々に対するイエス・キリストからの応答が記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書16章1節~4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
きょうの話の舞台は、イエス・キリストの活動が佳境に入りつつあった時期です。イエスはすでに数々の奇跡を行い、病を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々を教え導いておられました。
それにもかかわらず、ある日、ファリサイ派とサドカイ派の人々がイエスのもとにやってきて、「天からのしるしを見せてほしい」と求めます。
ファリサイ派とサドカイ派というのは、当時のユダヤ社会で大きな影響力を持っていた二つの宗教的グループでした。しかし、両者の立場は大きく異なります。
ファリサイ派は、律法の厳格な遵守を重んじ、伝統的な宗教生活を大切にしていた人々でした。一方、サドカイ派は、神殿での祭儀を重視し、政治的にはローマ帝国との協調路線を取っていました。教理的にも、天使の存在や復活を信じていない人々もいたとされます(使徒言行録23:8)。
本来ならば対立関係にあったこの二つのグループが、ここでは共に手を結んでイエスに迫っている──それだけでもこの出来事がただ事ではないことがわかります。
彼らはこう言いました。「あなたが神から来た者なら、それを証明する『天からのしるし』を見せてみよ」と。
それに対して、イエスはこうお答えになります。
「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」(マタイ16:2,3)
これは彼らの表面的な信心深さを痛烈に批判する言葉です。つまりイエスはこうおっしゃっておられるのです。「あなたたちは自然の兆候から天気を判断する知恵は持っている。それなのに、目の前にある時代のしるし、すなわち神の救いの計画の進行をどうして理解しようとしないのか」と。
そしてこう続けます。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタイ16:4)
これはどういう意味なのでしょうか。
「ヨナのしるし」とは、旧約聖書の預言者ヨナの物語を指しています。ヨナは神の命令に背き、船で逃げようとしますが、嵐に遭い、ついには海に投げ込まれて、大きな魚に飲み込まれます。三日三晩その腹の中で過ごした後に、岸に吐き出され、そこから再び神の言葉を携えて民のもとに遣わされるのです。
この「三日三晩」という出来事は、やがてイエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られ、三日目に復活することの象徴であると解釈されています。つまり、「ヨナのしるし」とは、イエスの死と復活そのものの予表であり、最終的で決定的な「しるし」です。
ところが、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、そのしるしに目を向けようとしませんでした。彼らは目の前にいるイエスがなされた数々の癒しや奇跡を「しるし」として認めようとはせず、なおも「天からのしるし」という、自分たちの期待に合致する証拠を求めたのです。
ここに私たち自身の姿が映し出されているように思います。
神が何かを語っておられるのではないかと感じながらも、それが自分の思い描く形でなければ納得できない。何か「もっとはっきりとした証拠」「もっと劇的な出来事」がなければ信じられない。
けれども、神はすでに「しるし」を示してくださっています。イエス・キリストのご生涯そのもの、そして十字架と復活の出来事。それは、すでに歴史の中で実現した神の究極のメッセージであり、救いのしるしです。
私たちは、目の前にある「神のしるし」を、見ようとせずに見逃してはいないでしょうか。
今日の私たちもまた、「しるし」を求める誘惑の中に生きています。
「神様が本当におられるなら、私の願いを叶えてくれるはず」「こんなことが起こるなんて、神様がいない証拠だ」「奇跡が見られたら信じるのに」
そんな声を、私たちの心の中にも聞くことがあります。
けれども、神は魔法のような「しるし」をもって私たちを導こうとはなさいません。むしろ、地味で、控えめで、しかし確かに歴史の中で起こった救いの出来事……イエス・キリストのご生涯と十字架と復活によって、すでに「しるし」を示してくださっています。
信仰とは、神がすでに語っておられる言葉と、示してくださった「しるし」に応答することです。
聖書にはこんな言葉があります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)
私たちは、「もっとわかりやすいしるしがあれば」と思うかもしれません。けれども、神はすでに、最高のしるしをイエス・キリストを通して私たちに示してくださっています。
そのしるしを信じ、望んでいる事柄を確信して歩み始めること。それが、今を生きる私たちに与えられている最大の祝福なのです。