12月31日(火)エレミヤ書 52章
エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から投げ捨てられることになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』エレミヤ書 52章3節
主の怒りの中で立ち帰る
宮﨑 契一(那覇伝道所)
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エレミヤ書の最後に記されるのは、ユダ王国がその罪のゆえに、主の怒りを受けて御前から投げ出されたという悲惨です。
ユダはバビロンに包囲され、食糧難で食べ物が不足し、とうとう都の一角が破られてしまいます。逃れた王はバビロン軍に追いつかれ、目の前で自分の息子たちをバビロンに虐殺され、自らも目をつぶされて、もはや王としての役割を果たせなくなります。エルサレムにある神殿をはじめとした建物もすべて火で焼かれ、民は敵国バビロンに捕らえ移されることになるのです。
聖書が記すのは、ユダもまた主なる神の怒りを受けて、国の滅びを経験させられたということです。これまで預言者エレミヤが繰り返し警告したことが、最後になって現実のものとなっていきます。
しかし、エレミヤ書の最後に記されるのは、すでに捕らえられていたユダの元王ヨヤキンにバビロンからの赦しが与えられ、彼がバビロン王の保護のもとでその生涯を過ごしたという話です。なぜ、このような好意が最後に記されるのでしょうか。
それはやはり、主の怒りからの回復の道を神が備えておられるからです。人がどのような悲惨に陥っても、立ち帰ることが許されているとは、何とすばらしいことでしょうか。
【祈り】
今年一年、私たちに与えられた導きを感謝いたします。