リジョイス聖書日課

エゼキエル7章 神のなだめの供え物

聖書日課
2019年9月14日(土)

エゼキエル7章 神のなだめの供え物

  

終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り、お前の行いに従って裁き、忌まわしいすべてのことをお前に報いる。(エゼキエル7:2-3)

 終わりの日、それは背く者に神の聖なる御怒りがあらわされる日です。神への背信のゆえに契約の民イスラエルに終わりの裁きの日が来ると告げられたのです。それは神の義しい御怒りがあらわされる時でした。神の聖なる御怒りが臨むのであれば、人に救いの望みはありません。

 伝道者パウロも詩編を引用して、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」と言っています(ロマ3章10、11節)。人間による救いの道は完全に閉ざされました。しかし、そこに人間の業によらない、神から来る救いの道が開かれました。

 聖書の神は愛の神であると同時に、罪に対しては聖なる御怒りをもって臨まれる義の神です。私たち人間は誰も自らの背きと罪のゆえに神の聖なる御怒りに耐えられません。しかし、恵みの神は、御子イエスを十字架にご自分の聖なる御怒りをなだめる供え物とすることによって、赦しと救いの道を開いてくださいました。それゆえ、なお多くの古き罪を囲いつつ生きる私たちであっても、この御方にあって救いの希望に生きることができます。

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