ヨセフは、父に言った。
「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
ところが、父はそれを拒んで言った。
「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」(創世記48:18-19)
老齢のヤコブは病み、今は死を前にしています。ヨセフは、父ヤコブの病の知らせを聞き、二人の息子、マナセとエフライムを連れて、見舞いに行きます。ヤコブは見えなくなった目で、その孫たちを抱き、祝福します。
そこで不思議なことをヤコブはします。ヤコブの手は、左右に交差されたのです。ヤコブの祝福の右手は左側にいた弟のエフライムに、左手は右側にいたマナセに伸ばされます。通常は逆のはずでした。父のヨセフにとってもこのことは意外なことであったようです。ヨセフは、右手を長男の方に置き換えようとしますが、ヤコブはそれを拒み、「わたしには分かっている」と言います。
このことは何を意味するのでしょうか。この交差された手の背後に神がおられます。神の思いは人の思いと異なります。このことは創世記で繰り返されてきました。カインとアベル、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ…。主イエスも言われました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタ20章16節)と。私たちも人の思いを超える神の恵みによって選ばれ、救われています。
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