月刊誌リジョイス 聖書日課 2018年1月22日(月)

イザヤ1章 心をご覧になる神

お前たちのささげる多くのいけにえが
わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に
わたしは飽いた。
雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。(イザヤ1:11)

 イザヤが活躍していた時期は、アッシリア帝国の興隆期にあたります。紀元前8世紀、アッシリア帝国はシリア、北イスラエルを征服したのを皮切りに、ペリシテ、エジプトを撃破、その勢いのまま南ユダに攻め込み、あと一歩でエルサレムを陥落させるにまで至りました。

 このアッシリアによる南ユダへの攻撃を、イザヤは神の裁きと考え、ユダの民に悔い改めを説きました。イザヤとは「主は救い」という意味です。そのような名がつけられたのは、主の救いを味わって感謝していたという意味もありますが、困難の中にあって主の救いを期待しているという意味を感じさせられます。

 ユダの民はその時、神を信じていなかったわけでも、礼拝をしていなかったわけでもありません。冒頭の聖句のように形だけの礼拝行為をすれば、神が喜ばれるということではないのです。

 神が求められるのは、形ではなく信仰です。神は私たちの心をご覧になります。神の教えに耳を傾け(2、10節)、悪を行うことをやめ、善を行うことを求められます(16、17節)。

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