この章では、エルサレムとその住民の関係を、母と子になぞらえています。人々の目には、エルサレムがまるで夫から離縁状を突きつけられた妻のように、エルサレムに住む住民たちが借金の肩代わりに債権者に引き渡された子供のように映っています。しかし、主である神は「離縁状はどれか」「債権者は誰か」と問いかけます(1節)。エルサレムが敵の手に渡り、その住民が捕囚の民として連れて行かれたのは、決して神が離縁状を突きつけたからではなく、債権者として子供を引いていったからでもありません。神の民自身のそむきの罪の結果です。神が彼らを見捨てたのではありません。お前たちのうちにいるであろうか
主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。
闇の中を歩くときも、光のないときも
主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。(イザヤ50:10)