月刊誌リジョイス 聖書日課 2015年3月4日(水)

イザヤ3章 主に従う幸い

しかし言え、主に従う人は幸い、と。
彼らは自分の行いの実を食べることができる。(イザヤ3:10)

 支えとなり、頼りとなるものをもっていることは大切なことです。しかし、何を支えとし、何を頼みとするかはもっと大切です。

 主は預言者イザヤの口を通しておっしゃいます。「見よ、主なる万軍の神は、支えとなり、頼みとなる者を、また、パンによる支え、水による支えをも、エルサレムとユダから取り去られる」(1節)。

 頼みとしていたものが、一つ取り去られ、二つ取り去られて、初めて人々は自分たちの罪の事態の深刻さに気がつきます。それなりに食べるものがあるとき、人は生きていけると錯覚しがちです。どんなに血と汚辱にまみれた指導者であっても、自分たちに利益をもたらしてくれる限りは、頼みの綱と見えます。しかし、そうした頼みと思えたものが取り去られるときに、ほんとうに頼りとなるものが明らかになります。

 主は与え、取り去ることのできるお方ですから、このお方以上に、頼りとなるお方はいません。この主に従う人は幸いであると、聖書は語っています。このお方を畏れ、このお方の前に真摯に歩むことが、すべての人に求められています。

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