信仰生活は、聞くことにその中心があります。聴き従うことです。何を聞くのでしょうか。何に聴き従うのでしょうか。神に聴き従い、神の言葉に聴き従う。これがすべてです。しかし、当時の南ユダの民は、これとは、真反対の状態でした。快楽をむさぼり、預言者の言葉に耳を傾けず、己が腹を神として歩んでいました。そのありさまを聖書はこう記しています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と」(11節)。自分勝手な生活をしながら、主を頼りにしていると言っています。しかも、主を頼りにしているから、災いは及ばないと豪語しています。わたしは言った。
聞け、ヤコブの頭たち
イスラエルの家の指導者たちよ。
正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。(ミカ3:1)