月刊誌リジョイス 聖書日課 2013年7月19日(金)

ヨハネ9章 見えない自分が見えるといいうる恵み

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9:37-39)

 生まれつき目の見えなかった人を、主は癒やし、その目を開かれました。旧約時代に先例を見ない著しい奇跡です。この癒やしが、安息日の出来事だったため、ファリサイ派による厳しい追究が始まります。一体、見えるとは何か、見えないとは何を意味するのか。

 行き詰まりを打開するのは、主イエスです。主は癒された人に再会し、あなたを癒した人を信じたいか、とお尋ねになります。「その方を信じたいのです」(36節)、それが彼の答えでした。肉眼の視力だけでなく、目を開いてくださった方への信仰が芽生えました。見える、という事実が恩寵の光であることが、ここに明らかにされます。

 主イエスは、ご自身の到来が「裁くため」だと言われます。この方を軸に、見えることと見えないことが交差し、逆転します。見えると主張するとき、人は見えない人間となります。見えない弱さ、見えない罪を認めれば、上からの光が彼を照らし、見える人に変えられます。主の前に膝をつき、見えていることを感謝しましょう。

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