月刊誌リジョイス 聖書日課 2012年8月13日(月)

哀歌1章 涙の祈り

なにゆえ、独りで座っているのか
人に溢れていたこの都が。
やもめとなってしまったのか
多くの民の女王であったこの都が。
奴隷となってしまったのか
国々の姫君であったこの都が。
夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。
彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。(哀歌1:1-2)

 哀歌は、紀元前586年に起きたバビロンによるエルサレムの陥落と捕囚を嘆きつつ、五つの歌で歌います。栄華を極めたエルサレムは今や、敵国に侵略され、侮辱されています。預言者は、この悲惨な出来事が、神の民が主なる神から離れてしまった罪の結果であると見て、嘆いています。

 哀歌に繰り返し出てくるのは「涙」です。16節でも「涙」が出てきます。「神を信じることのない者は、涙もまた渇く」と語った神学者がいます。信じない者の目は渇いています。泣くこと、嘆くことを知りません。しかし、逆に神を信じる者の目は神を信じるがゆえに渇きません。確かに、神に拭っていただくことを待ち望むから、流すことができる涙があるのです。

 この国、教会、私たちの家庭、わたし自身に、今も悲しむこと、涙を流さずにはおれないような現実があります。神から離れて生きるところには、今も悲惨があります。主なる神の前にあって涙すること、それは恥ではありません。

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