わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。(イザヤ66:2)
この御言葉が語られた頃、イスラエルの民の間に、信仰を巡っての対立が起き、真の信仰者が神殿から追放されるということがあったようです(5節)。神殿礼拝から排除された真の信仰者に向かって、主の慰めと励ましの言葉が告げ知らされました。
主は天を王座とし、地を足台とする天地の創造者です。神殿でなければ主を礼拝できないのではありません(1、2節)。また、神殿礼拝に参加できる人が、どんなに規定どおりの献げ物をしたとしても、信仰の実質が伴わず、主の声に耳を塞ぐなら、その人は忌むべき礼拝者です(3、4節)。
礼拝で何よりも大切なことは、御言葉を通して主の人格に触れ、魂を打ち砕かれておののくことです(2節、5節)。神殿から遠ざけられても、そのようにして主を礼拝するなら、主が顧みてくださる、と預言者は約束しました。
御言葉におののく人に、神の愛は母の愛のようです(13節)。礼拝で、この愛に触れたいのです。
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