月刊誌リジョイス 聖書日課 2011年2月24日(木)

1テモテ1章 福音を恥とせず

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(1テモテ1:11-12)

 パウロは、逆境のなかにあっても思い悩むことから解放されています。そればかりか「かの日まで」の圧倒的な神の守りを確信していると言います。さらに同労者であるテモテにも「恥じてはならない」と力強く勧めます。なぜでしょうか。

 1章に「恥」という言葉が三度登場します。これは、パウロが牢獄に入れられて苦しみを受けていることを指しているはずです。そして、囚人パウロという一つの事実を前にして、二つの態度があり得ることが示されます。一つは、これを恥じる見方で、そのように感じた人びとはパウロのもとを去りました。他方、パウロ自身は自分の境遇を決して恥じていません。

 その根拠は何でしょうか。パウロは自らを主の囚人であると見ています。主にあるがゆえに囚われたことは恥ではないと言います。しかし、それ以上に大切なことは「自分が信頼している方を知っている」ことです。主を知るものは福音を恥とせず、喜びに生きます。聖霊の助けによって、そのように主を知りたいと思います。

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