月刊誌リジョイス 聖書日課 2009年8月6日(木)

使徒15章 福音に対する識別力

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1-2)

 後の時代から見るならば、「割礼を受けなければ、救われない」などという教えは、まったく無意味です。しかし、当時は、「割礼」を受けることは、聖書的裏付けがあると理解されていました。割礼を宣べ伝えたなら、迫害を受けることはなく、ユダヤ人伝道はし易かったでしょう(ガラ5章11節、6章12節)。ユダヤ人キリスト者が自明と思っていたなかに、誤謬が潜んでいました。

 そのなかで、パウロたちは、誤りを見抜きました。それができたのは、彼らが実際に福音を拠り所として生きていたからです。パウロは、「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラ2章21節)と語っています。

 いつの時代でも、教会に問題が起こるとき、それが些細な事柄か救いの本質に関わる事柄かを識別して、対応しなければなりません。それができるか否かは、福音に生きているか否かに掛かっています。教会は、問題に対処する際、福音に生きる者の識別力を必要としています。

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