後の時代から見るならば、「割礼を受けなければ、救われない」などという教えは、まったく無意味です。しかし、当時は、「割礼」を受けることは、聖書的裏付けがあると理解されていました。割礼を宣べ伝えたなら、迫害を受けることはなく、ユダヤ人伝道はし易かったでしょう(ガラ5章11節、6章12節)。ユダヤ人キリスト者が自明と思っていたなかに、誤謬が潜んでいました。ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1-2)