聖書を開こう 2021年2月18日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  自称「主を畏れる者」(ヨナ1:7-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会の中でよく耳にする言葉に、「証になる」とか「証にならない」という言葉があります。たとえば、クリスチャンが人助けをして、世間の人々が「さすがキリスト教を信じる人は違う」と思うようになったとき、「あの人の善い行いは証になった」というような使い方をします。

 反対にキリスト教会の不祥事がニュースで話題になって、キリストの名声を貶めるようなときには、「ああいう事件を起したら、証にならない」というような使い方をします。

 そういう言葉を生活の規範にし始めると、神の御前に真摯に生きるというよりも、世間の目を気にして委縮した生き方になってしまうようでちょっと残念な気がします。むしろ、弱さや欠点があるからこそキリストの救いを信じ、罪の赦しを信じて生きる生き方の方が、キリストの福音を体現しているように思います。さらに言えば、自分の弱さを知り、そういう足りなさを抱えた自分を受け入れてくださる神の愛を知って、他者の弱さに対しても寛容になるとするなら、その方がずっとキリストを信じて生きることがどういうことなのかを物語っているように思います。

 しかし、そうは言っても、信仰に忠実な生き方から逸脱してしまい、欠点だらけの自分をさらしてしまうことの方が多いように感じます。しかし、そんな信徒の弱さをも神は用いてくださることを、この『ヨナ書』は示しています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 1章7節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。

 前回の学びでは、神の命令に背いて、ニネベの町とは正反対の方向へ逃げ出すヨナの姿を学びました。しかも、その身勝手な行動のために、船に乗り合わせた多くの人々を危険にさらしてしまいました。

 同じ船に乗り合わせた人々には、危険が船に差し迫る理由がまったくわかりませんでした。大嵐を逃げて助かるために、人々はそれぞれ自分の信じる神に祈り、船を軽くするために船荷さえも海に投げ捨ててしまいました。出来得る限りを尽くしましたが、それでも、状況は変わりません。

 とうとう、誰のせいで自分たちがこんな目に遭っているのか、お互い疑心暗鬼の目で船に乗り合わせた人々を見るようになりました。とうとう誰のせいでこんな災難が自分たちに降りかかったのか、くじ引きで明らかにしようということになりました。

 実際に自分が乗り合わせた船や飛行機の中で、こんな騒ぎが起こって、くじ引きで犯人捜しをし始めたとしたら、それはもう異様な雰囲気に包まれるに違いありません。ただ、わたしたちがこの話を何の疑問も不安も感じずに読み進むことができるのは、所詮わたしたちはこの船に乗り合わせているわけではないのと、くじはヨナに当たるとわかりきっているからです。

 人々は、たとえ自分には何のやましいことはないとは思いつつも、それでも過去の行いの何かが災いして、こんなことが起こったのではないかという不安は隠しきれなかったはずです。みんなドキドキした気持ちでくじを引いていったことでしょう。

 同じドキドキした思いでも、ヨナのそれはほかの乗客とは明らかに違っています。自分のせいだ、ということは自分でもはっきりとわかっていたはずです。あわよくば、誰にもくじが当たらず、こんな方法では犯人捜しはできないという結果に終わってほしいと願ったかもしれません。自分さえ白状しなければ、この場をやり過ごすこともできたでしょう。

 しかし、幸か不幸か、見事にヨナにくじが当たってしまいます。

 「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来て、国はどこで、どの民族の出身なのか」

 そう詰め寄る人々に対して、ヨナは正直に告白せざるを得ません。

 「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」

 ここを読むたびに、わたしはヨナがどんな気持ちでこの言葉を口にしたのだろうかと思います。例えば、自分がスピード違反で捕まったときに、警察官から「あなたの職業は何か、そんなに急いでどこに行こうとしていたのか」と聞かれたなら、「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる牧師だ」などと言うのもためらわれます。しかも、訳あって、自分が信じる神の前から逃れて来ました、などと恥ずかしさのあまり口にもできないでしょう。

 人々の目から見ても、また神の目から見ても、「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者」とはとても思えないヨナの行動です。本当に神を畏れる者であるなら、神の命令に背くことなどないはずです。それでも自分が主を畏れる者であることを告白して憚らないヨナを、いったいどう受け止めたらよいのでしょう。

 ヨナは自分の行動と信仰の告白がちぐはぐであることに気が付いていないのでしょうか。それとも、自分の行動が自分の信仰とはまったく矛盾していないという確信があったのでしょうか。人々の目から見れば、自称「主を畏れる者」であったとしても、本人は主を畏れるからこそ、主の前から逃れて来たということでしょうか。

 興味をひかれることには、言っていることとやっていることが矛盾しているように思われるヨナの告白に、人々は「非常に恐れた」という反応を示します。命令に背くヨナを大嵐をもって裁こうとする神の姿を感じ取って、人々はヨナ以上に神を恐れたというのですから不思議です。

 まことの神を恐怖の対象としてしか感じられないとすれば、それは残念なことですが、しかし、海さえもコントロールすることができるお方であることを知ったのだとすれば、ヨナの行動も少しは役に立ったのかもしれません。何せよ、この場面の中では、まことの神を知らない人々の方が、よほど神を恐れているように見えます。

 神はヨナの正しくない行動を通してさえも、ご自身を人々に示されるのだとすれば、ただただ神の前に恐れ入るばかりです。わたしたちのしていることは、自分では正しいと確信しているかもしれません。しかし、神の目から見ても、人々の目から見ても、正しくない行動である場合があります。しかし、それにもかかわらず、神はその行動を通してさえもご自身の存在を語ってくださるお方です。

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