聖書を開こう 2020年3月12日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  愛に生きる(1ヨハネ3:11-18)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書に記されている神の律法を正しく理解するには、消極的な理解と積極的な理解の両方が大切だと言われています。例えば、モーセの十戒の言葉のほとんどは、「〜してはならない」という書き方がされています。「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」などなどです。

 では、何かをしないという、消極的な理解だけで十分なのかというと、そうではありません。「殺してはならない」という戒めは、ただ殺さなければいいということではありません。自分の命であれ、他者の命であれ、命をどれほど大切にしているか、という積極的なことも含まれているという理解です。そして、どの戒めにも共通していることは、そのことを通して、神への愛、人への愛が実現しているか、ということです。

 ヨハネのこの手紙の2章の書き出しには、この手紙を書いた目的として、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」だと記しています。しかし、「罪を犯さない」とヨハネが言うときに、その念頭にあるのは、ただ何かをしないということではありません。

 きょうこれから取り上げようとしている箇所には、「罪を犯さない」とヨハネがいうときに、その言葉によってヨハネが何を具体的に伝えようとしていたのか、そのことが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 3章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 前回の学びで、ヨハネは「罪とは、法に背くことです」と述べていました。その場合の「法」とは、神が定められた法という意味で、とくにモーセの十戒には神の法の要約が記されています。罪を犯さないとは、これらの法に背かないことです。

 そして、前回取り上げた聖書の個所の最後の言葉は、神の子たちとそうでない者たちとを際立たせる違いについてこう記されていました。つまり、正しい生活をしているのか、していないのか。自分の兄弟を愛しているのか、いないのか、そういう具体的な区別でした。

 きょう取り上げた11節以下では、兄弟愛の実践という具体的なことが取り上げられます。つまり、ヨハネがこの手紙を書いたのは、読者たちが罪を犯さないようになるためでしたが、それは、具体的には兄弟愛の実践を通して明らかになる事柄です。

 ヨハネは数ある戒めの中で、「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだ」と述べて、その重要性を示します。そして、この教えに背いた最初の具体例を、ヨハネは創世記4章に登場する、弟を殺したカインの生き方に見出します。

 このカインが起こした事件は、ただ単に愛に反する罪の具体例というばかりではなく、その者の所属を明らかに示す事件でもありました。このことを通してカインは自分が悪い者に属していることを明らかにしてしまいます。

 では神の子とされ、神に属する者たちはどうなのかというと、消極的な意味では、カインの起こした事件が示す通り、神に属さない者たちから憎まれる存在です。それはある意味避けることができないことがらであると同時に、驚くべきことでもありません。神に属するものとそうでないものとの区別は決定的であるからです。

 けれども、積極的に物事をとらえるとすれば、兄弟愛を実践することの中に、神の子とされ、命へと移されたことの実りを見出すことができるのです。その愛は完ぺきではないかもしれません。しかし、憎しみから愛へ、無関心から関心を抱くようになるわずかの変化の中に、確かに見いだされる喜びの変化なのです。

 もっとも、この個所を読むときに注意しなければならいことは、この個所を誰かを批判したり批評したりするために読まないということです。あの人には愛が感じられないから悪魔に属する人間だ、とそう決めつけるためにこの個所を悪用すべきではありません。あるいは、自分は兄弟愛に欠けているから、神に属する者ではない、と自分を極端に卑下すべきでもありません。

 ヨハネがここで伝えたいことは、愛に生きることができなかった私たちに、キリストがまず命を捨てるほどの愛を示してくださったという事実です。それによって何よりも罪に死んだ私たちが命の交わりへと生かされるようになったという事実です。

 その愛に生かされている私たちの中に、どんな変化が起こっているのか、それに気がつくことが大切です。自分には愛が足りないと思うことも、裏を返せば、そんなことにも気がつかなかった過去の自分からの大きな変化です。そのようにして確実にキリストの愛に生かされていく中で、隣人に対する愛が芽生えてきます。

 キリストを通して示される神の愛に触れるときに、愛に生きるようにと変えられるからです。その愛は、決して概念や観念ではありません。キリストが命を捨ててくださったように、具体的な行動の中に示されます。

 ヨハネは、この個所を締めくくるにあたって。「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と読者に命じています。罪を犯さないようになるとは、ただ消極的に何かしないことなのではありません。むしろ、キリストの愛に生かされて、隣人のために生きることの中に具現化していくのです。

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