聖書を開こう 2019年5月16日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  裏切りの予告(マルコ14:17-21)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の中には、ぜひとも答えを知りたくなるような、わたしたちの関心をひくようなことがたくさん出てきます。しかし、わたしたちの興味や関心だけから聖書を読み、答えを引き出そうとすると、迷路に迷い込んでしまいます。

 そのような事柄の一つに、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの問題があります。いったい、ユダは最終的に救われるのかどうか、ただ、イエスを裏切るためにだけ彼の人生はあったのか、とめどもない疑問が出てきます。

 今日取り上げる聖書の個所は、このイスカリオテのユダの裏切りをイエスが予告する場面です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章17節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 夕方になると、イエスは12人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「12人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 今日取り上げるのは、いわゆる最後の晩餐での1シーンです。先週学んだように、弟子たちはイエスの命令どおりエルサレム市内の2階の広間に過越祭の食事の準備をしました。ユダヤ人の慣例に従って、夕刻になると過越の食事が始まります。その食事の席上で、イエス・キリストはご自分を裏切ろうとしている者がいることをお告げになりました。

 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」

 いったい、イエスのこの言葉にはどんな意図があったのでしょうか。少なくとも、この言葉には二つの意味合いが込められています。

 一つは、ご自分を裏切る者がいるということをイエス・キリストご自身が、よく知っているということです。

 イスカリオテのユダにしてみれば、祭司長たちや律法学者のところへ行ってキリストを引き渡す算段を相談したことは、まったくの秘密のことでした。秘密裏にことを進め、誰にも自分のことは知られないはずでした。

 しかし、イエス・キリストはすべてをご存知でした。それはただ単にどこかから秘密を漏れ聞いて知ったというのではありません。また、裏切りの計画を知ってはいたものの、それを思いとどまらせる力がないというのでもありません。

 また、それは、イエス・キリストが神の子として、ただ単にすべてをご存知であったというにとどまるものでもありません。

 このイエス・キリストの発言には、裏切る者がいると知りながら、しかし、あえて十字架への道を選んでいらっしゃるイエス・キリストの決意が背後にあります。

 イエス・キリストを裏切る者とその一味は、何も知らないキリストが、哀れにも自分たちの策略どおり、十字架にかけられてしまうとほくそえんでいたことでしょう。けれども、すべてが神のご計画のうちにあることを、イエス・キリストは、よくご存じでした。彼らの策略によってではなく、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」のです。

 そうであれば、このイエス・キリストの発言にはもう一つの意味合いがこめられています。それは裏切りの罪への警告です。

 イエス・キリストが、聖書に書いてあるとおり去っていくのであれば、ユダの裏切りは、一見、神の預言の成就に貢献したように思われます。しかし、それはまったく逆のことでした。むしろ、キリストのこの言葉に促されて、ユダは自分の罪の大きさに気がつくべきでした。

 他の弟子たちが「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたときに、ユダは恐れおののいて自分の罪を告白すべきでした。ユダはキリストの発言が一体誰のことを言っているのか、どの弟子よりも知っていたはずだからです。

 イエス・キリストは最後まで、裏切り者が誰であるかを名指しでおっしゃいませんでした。まるでイエス・キリストはユダが自分の罪を告白して、悔い改めるのを待っているかのようです。

 その裏切る者について、キリストはさらに語意を強めてこうおっしゃいました。

 「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 おそらく、聖書の中でこれほど辛らつな言葉は他にないでしょう。いったい、生まれてこなかった方が良かったといわれるような人が他にどこにいるのでしょうか。たとえ何も出来ないとしても、ただいるというだけでよい、生まれてきて本当に良かったと人に教えるのがキリスト教の教えのはずです。そのイエス・キリストがご自分を裏切ろうとしている者のことを「生まれなかった方が、その者のためによかった」というのはどうしたことでしょうか。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、イエス・キリストはここでも「イスカリオテのユダは生まれてこなかった方が良かった」などとはおっしゃっていません。

 イエス・キリストを裏切る者がどれほど不幸であるか、そしてその者は生まれてこなかった方がいいとは言います。しかし、イエス・キリストはそれがユダであるとは一言も言っていません。ユダには最後の最後まで、キリストを裏切ることをやめるチャンスがありました。

 誰しも生まれながらにして不幸な人間、生まれてこなければ良かったような人間はいません。けれども、これだけの警告を無視して自分から選んだ道に対して、その責任は大きいといわざるを得ません。

 わたしたちは、最終的にユダが救われたのかどうか、そのことは分かりません。だた、一つ言えることは、ユダはイエス・キリストを祭司長たちに引き渡すという裏切りを働く前に、すでに、イエス・キリストのこれほどまでの忍耐と寛容を裏切ってしまったということです。神の忍耐と寛容を裏切ること、それは、旧約聖書に登場するイスラエルの人々の弱さでもあり、誰にでも起こりうることです。決して、他人事ではありません。

 そのような裏切りの罪からもし救われる可能性があるとすれば、それは神の愛と義と赦しによるよりほかはありません。

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