聖書を開こう 2018年4月12日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  安心していきなさい(マルコ5:21-34)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんな病気でもそうだと思いますが、病は自分の意に反して突然襲ってくるものです。病気になりたくてなる人はほとんどいないでしょう。もちろん、現実逃避したくて、病気にでもなればいいのにと心に思ったとしても、いざ、病気にかかると、健康のありがたさを身に染みて感じるものです。

 病にかかりたくないと思っても、必ずしも思い通りにならないのが病気です。そうであれば、病に倒れる人に対して、もっとやさしくあるべきなのでしょうけれども、現実の世界はなかなかそうはいきません。病気そのものに対する偏見がその人を苦しめたり、その病気を治すためにかかる経済的な負担がその人を苦しめたり、病気からくる苦しみ以上にその人を苦しめることがあります。

 きょうこれから取り上げる箇所にも、長年の病に苦しむ一人の女性の話が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 5章21節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
 さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 きょう、お読みした個所には、互いにまったく関りのない二人の人生が、突然、交差します。それは人生ではしばしば起こりうることです。ある場合には、そうした出会いが、思いもかけずに自分の人生に益をもたらします。しかし、ある場合には、出会ってしまったがために、大変な損失を被るということもあります。きょう取り上げたストーリーは、一方から見れば、大変なロスのように思えたに違いありません。なにしろ、自分の娘の命にかかわっているにもかかわらず、一刻を争う時間を無駄につぶされてしまったと感じられるからです。

 イエス・キリストは、病のために今にも娘を失いそうな父親からの要請を受けて、道を急いでいます。と、そんな緊急な場面に姿を表したのが、きょうのストーリーに出てくる一人の女性です。この女性はそんな緊急の事態など知る由もありません。自分が抱えている問題で精一杯です。彼女にとっても、キリストが近くにいるこのチャンスを無駄にしたくはありません。

 かたや、イエスを自分の家に呼び寄せようとしているヤイロにとっては、一刻を争う緊急事態です。少しの時間でも妨げられたくはありません。そんな緊迫した状況の中で、イエスと一人の病に苦しむ女性の対話が始まります。

 この女性は12年間という長い年月にわたって癒されない病気に苦しんでいました。12年という年月は、奇遇にも、今イエスが向かう先の、今病のために死にかけている娘の年齢と同じです。一人の子供が生きてきたのと同じ期間、一人の婦人が同じ年月、病気で苦しんでいたのです。

 多くの医者にかかり、ひどく苦しめられた上に、全財産までもすっかり失ってしまいました。その挙句、病気は悪化する一方でした。その不安や苦しみは、どれほど耐えがたいものであったでしょう。病いが癒されたのであれば、どんな苦しみも耐えてきた甲斐があるでしょう。失った財産も、健康が取り戻されたのなら、こつこつと取り戻す希望もあるでしょう。

 イエスのことを噂に聞いたこの婦人は、わらをもつかむ思いでイエスのところにやってきました。イエスの服にでも触れば治ると確信したのは、この婦人の思いつきであったかもしれません。しかし、それほどまでにしてでも癒されたいという気持ちの表れでもあります。

 後ろからイエスに近づいていったのは、自分の病気のことが知れれば、「不浄の女」として遠ざけられしまうことを恐れたからでしょう(レビ記15:25)。正面からではなく後ろから近づいたこの行動の中に、この婦人の癒されたいという願いが強く表れています。

 果たして、この婦人の願い通り、イエスの衣に触れると血はたちどころに止まり、病は完全に癒されました。

 ここまでは、イエスの周りにいた人々には何一つ知られることもなくことが運んでいきました。人知れず病が癒され、不安や苦しみから解放されたのですから、そのまま誰にも知られる必要もなく、この婦人はこの場を立ち去ることもできたでしょう。

 しかし、イエス・キリストはこの婦人の病気が癒されたということを秘密のままにさせておくことはありませんでした。それは、ご自分の名声を広めたいからではありません。そうではなく、この婦人に信仰の自覚を促し、神のもとから来る平安を確認させるためでした。

 「誰がわたしに触れたのか」と問い掛けるイエスに、弟子たちは戸惑いを隠しきれません。イエスがこの群衆の押し合う中で、なぜ、こんなことを問い掛けるのか、弟子たちにはわかるはずもありません。しかし、癒された婦人だけは、このイエスの問いかけの意味がわかっていました。

 恐る恐る名乗り出る婦人にイエス・キリストはおっしゃいます。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 イエスにとっては、これから向かう先の家で死に直面している少女も、今目の前にいる婦人も、共に救いを必要としている大切な人間であり、共に神の平安のうちで生きる必要のある人間なのです。

 イエス・キリストは、この病の癒しをただの奇跡と受け取られることを願いませんでした。この婦人の信仰を確認されたのです。たとえ病気が癒されても、神への信仰がなければ、救いも平安も伴いません。信仰のあるところに、希望があり、希望があるところに平安が生まれます。

 この婦人がそのまま黙ってこの場を立ち去ったとしても、病は癒されたでしょう。しかし、イエスの前に進み出ることによって、上からの平安も豊かにいただくことができたのです。

 直面する個々の問題を解決していただくことも必要ですが、それ以上に、これからの歩みの上に豊かな平安をいただくためにイエス・キリストの前に進み出ましょう。

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