聖書を開こう 2017年4月13日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  困難に遭っても落胆しない理由(2コリント4:16-5:5)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 赤ちゃんを見ていると、昨日までできなかったことが、きょうはできるようになるという驚きがあります。昨日まで寝返りができなかった子どもが、ある日気が付くと、寝返りをうっている。きのうまで言葉らしいことをしゃべらなかった子が、急に何か意味のある言葉を発している。昨日まで立つのがやっとだった子が、きょうは一歩足を踏み出すことができる。そんな進歩の日々を見ていると、親としても嬉しいものがあります。

 しかし、老いる過程は、ちょうどそれとは真逆です。昨日までできていたことが、ひとつふたつとできなくなってくる寂しさがあります。寄る年波には勝てぬとは、よく言ったものです。肉体的な衰えにはいつまでも抗うことができるはずもありません。しかし、せめて気持ちだけは若々しく、内面の輝きはいつまでも保ちたいと思うのは、誰しもそうだと思います。

 きょう取り上げようとしている箇所で。パウロは衰え行く「外なる人」に対して、日々新たにされていく「内なる人」の希望に触れています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章16節〜5章5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです。

 前回、学んだ個所で、パウロは福音宣教の働きを通して体験した様々な困難をあげながら、それでも滅ぼされることがない不思議を語りました。土の器にすぎない自分でありながら、しかし、この器に福音を盛り、この器を通してご自身の力を示される神がおられ、死ぬはずのこの身にキリストの命が現れるという希望についてパウロは語ってきました。

 きょうの個所は、それを受けて、「だから、わたしたちは落胆しません」と語りだします。前回の個所で語られていた通り、人間的な物差しではかれば、落胆するに十分な状況です。しかし、それにもかかわらず、落胆しないのは、復活のキリストの命が、キリストを信じる者のうちに現れるという希望があるからです。

 このことにパウロは畳みかけるように、落胆しない理由を補強して、三つのことを付け加えます。

 それは、衰えていく「外なる人」と日々新たにされていく「内なる人」の対比であり、一時の軽い艱難と重みのある永遠の栄光との対比であり、また目に見える過ぎ去るものと目に見えない永遠に存続するものとの対比です。この三つの対比をかかげながら、パウロは落胆しない理由を補強しています。

 だれしも年齢とともに体の衰えは避けることができません。健康だけが頼りであると思う人には、年を重ねて衰えていくことは、絶望への道のりです。しかし、キリストを信じるパウロにとっては、体の衰えには抗えないとしても、「内なる人」は日々に新しくされていきます。ここに落胆しない理由があります。パウロにとっての人生は、上り詰めた階段を、後は下るしかない人生では決してありません。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」人生です(フィリピ3:14)。日々新たにされつつある新しい人を着る人生です(コロサイ4:10)。

 同じように、艱難についても、対比すべき事柄があります。それは将来もたらされるはずの栄光です。パウロは自分が経験している艱難が、他人のそれと比べて一時的で軽いものだから、そこに安心を見出しているのではありません。先週も触れた通り、パウロの艱難は決して軽いものではありませんでした。しかし、それでもパウロはその艱難を軽く一時的なものとみなしています。いったい何と比べてそうだというのでしょうか。それは、将来あずかるはずの栄光と比べて、地上の艱難は遥かにに軽く、一時的だというのです。素晴らしい将来の栄光の前で、今の艱難はとるに足らないというのです。

 そして、パウロにとっての人生は、目に見えるものだけがすべてではない人生です。目に見えるものは、やがて衰え、過ぎ去っていく。このことは、何も聖書が言うまでもなく、この世の知者でさえそれを指摘しています。ただ、この真理を知っていたとしても、それだけでは、希望が持てるわけではありません。むしろ、知れば知るほど、むなしさを覚えます。けれども、この真理と対照的なもう一つの真理を知っている者にとっては、失望がありません。そのもう一つの真理とは、目に見えないものは永遠に存続するという真理です。

 パウロはさらに筆を進めて、この地上での歩みと、来るべき救いの完成との関係を丁寧に説明しています。

 先ほども指摘した通り、パウロは三つ事柄を対比させていました。それは衰えていく「外なる人」と日々新たにされていく「内なる人」の対比であり、一時の軽い艱難と重みのある永遠の栄光との対比であり、また目に見える過ぎ去るものと目に見えない永遠に存続するものとの対比でした。対比というときには、そこには連続するものは想定されません。しかし、パウロは「対比」を語りながら、しかし、ここでは地上の体と復活の体との連続性をも語っています。

 確かに、滅びゆくべき「地上の住みか」であるこの体と、やがて与えられる「天にある永遠のすみか」は、対照的な二つの事柄です。しかし、パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と述べて、二つの連続性、関連性を語っています。本来であれば、古い着物を脱ぎ捨てて、新しいものを着るはずです。パウロはほかの個所ではそういう言い方も確かにしています。しかし、ここでは、あえて「上に着る」という言い方をし、この地上での艱難の歩みを不必要な脱ぎ捨てるべきものとはしません。

 パウロにとってもそうですが、私たちにとっても、この地上での艱難は、決して不必要な脱ぎ捨てるべきものではありません。むしろ、復活の体をその上に着るときに、死が命に飲み込まれていく様をはっきりと知るようになるのです。

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