聖書を開こう 2017年3月2日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: キリストの知識の香り(2コリント2:12-17)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語で「におい」という言葉は、良いにおいにも悪いにおいにも使われます。しかし、「香り」というときには、悪い意味には使われません。臭いにおいとは言いますが、臭い香りとは普通は言いません。
 今日取り上げる箇所には、「死から死に至らせる香り」という不思議な表現が出てきます。もちろん、それを「香り」と訳したのは翻訳の問題で、「死から死へと至らせる臭い」と翻訳してもよかったかもしれません。ただ、同じ「におい」でありながら、ある人にとってはかぐわしい香りとなり、他の者にとっては、悪臭のように感じられるという意味で、あえて、訳語を統一して「香り」と本訳したのでしょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 2章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

 パウロはここで今置かれている自分の旅程について、コリントの教会の人たちに明らかにしています。それはトロアスからマケドニアに向かった理由を示すためのものでした。つまり、トロアスで会えると期待していたテトスに会えなかったために、やむを得ず、トロアスを後にして、マケドニアに向かったというものでした。

 使徒言行録の記事でいえば、20章1節から2節に非常に簡単に記されている部分ですが、実際には、エフェソを後にしたパウロには、コリント教会の問題が気が気ではなく、居ても立ってもいられないほどの気持ちであったことが、ここから伺うことができます。

 ここに記されているとおり、トロアスでは主によってパウロのために門が開かれていた状態であるにも関わらず、そこを後にしてマケドニアに向かったのには、よほどの事情があったことが読み取れます。ここでいう「パウロのために門が開かれていた」というのは、福音を語る機会が与えられ、またその結果、福音に耳を傾ける者たちが起こされた、という意味でしょう(コロサイ4:3参照)。

 そのような好機をあえて放棄してまうほどに、パウロの心は不安で、テトスに一刻も早く会いたいと願っていました。

 では、マケドニアに急いでどうなったのか、というと、パウロは7章5節以下で、その結末をこう記しています。

 「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」

 つまり、マケドニアでやっとテトスに出会うことができて、慰めを得たということです。

 それは、テトスに会えた嬉しさというばかりではなく、テトスがもたらした、コリント教会の様子が、パウロにとってうれしい知らせであったからです。

 ここで、少し不思議に思うかもしれませんが、パウロは2章12節と13節で、トロアスを離れてマケドニアに向かったことを記しておきながら、ずっと話が脱線して、7章でまたその続きを書いているということです。「脱線」と書きましたが、このギャップをどう説明するかは、少なくとも三通りの説明の仕方があります。一つは、先ほども書いたとおり、まったくの脱線にすぎないという説明が一つです。もう一つの説明は、実は、2章14節から7章4節までは、ほんとうは違う手紙がここに紛れ込んでしまったという説明の仕方です。三つ目の説明の仕方は、脱線でも、違った文書の挿入でもなく、パウロは意図して、このような書き方をあえてしたという説明です。パウロの意図が読み取れないとすれば、それはただの脱線に思えてしまうかもしれません。ただ、少なくとも、7章に至るまでの部分は、まったく違う文書が紛れ込んでしまったと言えるほど、異質なものではありません。

 さて、14節は確かに、マケドニアに向かったという記事を遮るかのように、突如として、神への感謝が述べられます。

 まず、最初にパウロが述べていることは、キリストがパウロたちを勝利の行進に連ならせたという点です。

 この場合、パウロが念頭に置いている勝利の行進のイメージは、ローマの軍隊の勝利の凱旋であったとしばしば指摘されています。そのローマ軍の凱旋には、捕虜がひきまわされ、勝利者の偉大さを視覚的に見せつけるという演出がなされました。

 パウロは自分をキリストの勝利の行進に捕虜として引き回される姿に描きます。それは、キリストの勝利の偉大さを示すとともに、しかし、ローマ軍の凱旋とは違って、それを感謝すべき恵みの捕虜としてパウロは描いています。

 さらに、パウロは、ローマ軍の凱旋行進の時にたかれる香を引き合いに出し、キリストの行進につらなる自分たちの姿をキリストの香りを放つ香に例えています。キリストの福音を伝える働きは、まさに香のように、キリストを知る知識を広めるからです。しかも、それは、福音を聞いて信じる者にとっては、命に至る香りであると同時に、福音を聞いても信じない者にとっては、死から死へと至らせる悪臭でもあるのです。諸刃の剣のようなこの福音宣教の業を託された使徒の働きの重荷を、いったい誰がふさわしく担うことができるのかとパウロは問うています。

 この発言の背後には、偽の使徒たちへの批判が込められています。パウロは人から非難されようとも、すべての人にとってかぐわしい香りになるように福音の真理を曲げたり、神の言葉を売りものにするようなことは決してしませんでした。神の言葉に対する誠実さこそ、福音宣教の重責を担うパウロの使徒としての誇りでした。

 神の言葉に真摯に向かう姿勢こそ、教会を健全に成長させていく秘訣なのです。

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