BOX190 2006年11月1日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: サタンについて ハンドルネーム・マリンさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・マリンさん、女性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。いつも番組を楽しみに聴いています。
 さて、質問ですが、サタンというのは何者なのでしょうか。悪魔と考えてよいのでしょうか。サタンもやはり神様が作られた存在なのでしょうか。いったいなんのためにそのようは存在を神様はおつくりになったのでしょうか。
 矢継ぎ早の質問ですみません。よろしくお願いします。」

 マリンさん、メールありがとうございました。サタンについてのご質問ですが、実はサタンや悪魔についての質問ほど取上げるのが憚られる質問はありません。というのは、聖書の中心的なメッセージは決してサタンそのものにあるわけではないからです。わたしたちの興味がサタンそのものに行ってしまうことは、聖書が書かれた目的から考えて決して望ましいことではありません。もし、サタンについて聖書からたくさんの情報を引き出してくる時間があるのなら、もっとその時間を、神について、救いについて知るために費やした方がずっとためになると思います。
 そういう意味で、サタンについて番組で取上げることにはわたしの心の中には抵抗があります。そのことがわたしたちの興味をただ満足させるためであるとするなら、あまり積極的な意味があるとは思えません。まして、サタンについてのさらなる関心を引き起こすことにでもなれば、ますますこの番組の本来の目的から離れていってしまうことになってしまいます。

 しかし、サタンが聖書の中に登場するということもまた事実です。そして、それは人間の救いの問題と無関係ではありません。人類を誘惑し、罪に陥れたサタンについて何も知らないというのでもいけないのです。聖書がサタンについて記しているからには、知る必要のないこととして脇へ置いておくこともできないのです。まして、聖書はサタンの悪巧みが今なお続いていることを告げているのですから、無視してしまうことはできません。
 サタンについて聖書から学ぼうとする時には、その学びがなんのためであるのか、しっかりとした目的意識を待たなければなりません。そうでなければ、結局はサタンに気持ちを奪われてしまう結果に終わってしまうことになるからです。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、サタンについて聖書が語っていることをご一緒に見ていくことにしましょう。
 まず、旧約聖書の中ですが、実は旧約聖書の中に出てくる「サタン」という単語のほとんどは一般的な名詞として登場します。たとえば民数記22章22節と32節では、バラムの乗ったろばの行く手を阻む主の御使いに「サタン」という単語が当てられています。この場合の「サタン」は「敵対する者」というぐらいの意味です。新共同訳聖書では「妨げる者」という訳語が当てられています。
 旧約聖書の中でのサタンの用法としてもっとも有名なのはヨブ記1章から2章にかけて登場する「サタン」です。ここでサタンは神の法廷でヨブを訴える者として登場しています。そればかりかその告発の正しさを証明するために神から全権を委ねられさえします。
 同じようにゼカリヤ書3章1節に登場するサタンも神の法廷で大祭司ヨシュアを告発するためにヨシュアの右に立っています。
 面白いことに、歴代誌上21章1節では、人口調査をするようにとダビデ王をそそのかしたのはサタンの仕業であると記されていますが、同じことを記したサムエル記下の24章1節ではそれが主ご自身の働きかけであると記されています。
 以上、ざっと旧約聖書の中の用法を見てきました。しかし、旧約聖書の中では新約聖書での用法ほどはっきりとサタンと悪魔・悪霊との関係は明確に述べられてはいません。

 では、新約聖書の中ではどうなっているのかというと、
まずサタンは洗礼を受けたばかりのイエスを誘惑する者として登場します。マタイによる福音書4章は「試みる者」「悪魔」という言葉を使いながら、最後に主イエス・キリストご自身が「退け、サタン」と彼を名指し、その誘惑を完全に退けています。
 ルカによる福音書が記しているイエス・キリストご自身の言葉によれば、悪霊の働きはサタンの働きと結び付けられています(11:14-19)。従って、イエスご自身が悪霊を追い出しているのであれば、それはサタンの内輪もめではありえないとイエスは主張されます。それどころか、イエスの働きはサタンの働きを滅ぼし、まさに神の国の到来を示す証拠であるとさえイエス・キリストはおっしゃっています。
 また、ルカによる福音書10章18節では神の国の宣教から戻ってきた72人の弟子たちの報告が記されています。
 「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」
 その報告の言葉に対してイエス・キリストはこうお答えになりました。
 「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」
 このようにサタンの働きがイエスと共に到来した神の国によって終止符を打たれつつあることが告げられます。

 パウロも同じようにローマの信徒への手紙16章20節でこう述べています。

 「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」

 この「サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」という表現は、いうまでもなく創世記3章15節を背景にした言葉です。そこでは、女の末が蛇の末の頭を砕くことが預言されています。いまや、イエス・キリストの救いの御業を通してその預言が成就されつつあるのです。
 ところで、創世記3章に登場し、人間を誘惑した蛇とサタンとの関係を暗示している箇所は新約聖書の黙示録12章8節です。そこでは大天使ミカエルと戦う巨大な竜、年を経た蛇は、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全人類を惑わす者であるとされています。この箇所で初めてエデンの園での出来事の背景にサタンが暗躍していたことが明らかにされるのです。

 さて、新約聖書では、キリストの勝利の前にはサタンの力はもう既に終わりが見えているようなものです。しかし、それでもなお誘惑者としてのサタンに対して警戒するようにと新約聖書は繰り返し警告しています。主の祈りの中では神の国が完成することを祈りつつ、悪しき者の誘惑から守られるようにと祈りつづけています。
 コリントの信徒への手紙二の11章14節によれば、「サタンでさえ光の天使を装う」のですから、その巧みなサタンの業には十分な警戒が求められているのです。

 マリンさん、いかがでしょうか。マリンさんの疑問にすべて答えることはできませんでしたが、聖書が語っていないことをこれ以上詮索することはそれほど意味があるとは思えません。キリストの勝利と救いの完成を信じつつ、神の武具を身に着けて信仰の戦いを共に戦いましょう。

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