BOX190 2005年5月4日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「ギャンブルやお酒について」 宮城県 K・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は宮城県にお住まいのK・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いつもラジオでBOX190や聖書を開こうを聴いています。

 さて、質問ですが、競馬や競輪などのギャンブルは避けた方がいいのでしょうか。礼拝後の昼食の交わりでは酒を飲んではいけないのでしょうか。日本国憲法や源氏物語より、聖書の方が貴重な書物なのでしょうか。」

 K・Tさん、お手紙ありがとうございました。いつも番組を聴いていて下さってありがとうございます。また、きょうは盛りだくさんの質問をお寄せくださってありがとうございました。お寄せいただいた三つの質問は、互いに関連している質問と言うよりは、どちらかと言うとK・Tさんが日ごろ疑問に思っていらっしゃることを、思いつくままにお寄せくださったのだと感じました。たくさんの疑問を持つこと、そして、それについて絶えず考えをめぐらせること、それはとても大切なことだと思います。特にK・Tさんが送ってくださったご質問は、今さら聞くのは憚られる、でも聞いてみたい…そう思われる方が多いのではないかと思います。

 先ず最初のご質問ですが、ギャンブルを避けた方がいいのかどうかという問題ですが、おそらくクリスチャンに限らず、健全な暮らしを求めている人であれば、漠然とギャンブルはよくないことだと言う印象を持っているのではないかと思います。では、聖書はギャンブルについて何と言っているのかと改めて尋ねられると、的確な聖書個所を引用して答えるのは難しいのではないかと思います。私自身、ギャンブルを明確に禁じている聖書個所というものを即座に思い浮かべることが出来ませんでした。もっとも、「殺すな」「盗むな」というように、「ギャンブルしてはならない」という明確な禁止命令が聖書の中にないとしても、ギャンブルが好ましいと言うことではないことは、わたしなりに聖書から紐解くことは出来ます。

 ちなみに、プロテスタントの教会で用いられる信仰問答書では、ギャンブルの問題は十戒の第8戒「盗んではならない」という戒めに含まれるものとして扱われることが多いようです。たとえば、17世紀にできた「ウェストミンスター大教理問答書」の問142では、第8戒が禁じている罪として「浪費的な賭博」が挙げられています。

 「盗むな」という戒めはただ単に所有物への侵害を禁じているのではなく、所有物を正当に手に入れること、扱うこと、重んじることを求めているのだとすれば、ギャンブルはその戒めから外れていると言わざるを得ません。ギャンブルで得をするというのは、誰かの損失の上に成り立っている訳です。誰も損をしないというギャンブルと言うのはありません。誰かの損失を自分の利得とすることですから、それは所有物を正当に手に入れることでもなければ、また、相手の所有物を正しく扱っていることにもならないのです。

 また、ギャンブルに興じる心のあり方に目を留めて考えるとすれば、それは十戒の最後の戒め「むさぼってはならない」にも反します。大体において、ギャンブルに興じる人は自分で自分をコントロールしがたくなってしまいます。まさに「むさぼる」心が剥き出しになってしまうのです。とくに一攫千金を狙う場合にそのむさぼる心は顕わです。

 さて、二番目のご質問は、お酒の問題です。とくに礼拝の後でもたれる昼食会などでお酒を飲んでもよいかどうかということです。

 お酒について、クリスチャンとしてどういう態度であるべきかということには、同じクリスチャンの中にも色々な立場があることはご存知だと思います。最も厳格な態度をとる人は一切お酒を飲みません。聖書の中には、神への献身から強いお酒を飲まない人がいたことも事実です。しかし、それとは反対に、お酒は個人の自由に委ねられた問題と捉えて、飲むのも飲まないのもそれぞれの判断に任せるという態度の人もいます。確かに聖書の中にはお酒を絶対に禁じる教えはありませんし、また、イエス様ご自身もぶどう酒をお飲みになりました。

 では、礼拝の後の愛餐会などにお酒を出すことはよいことなのかどうかと言うことになると、それは単なる個人の自由の問題では済まされません。

 先ほども言いましたが、教会の中にはお酒を飲まないことが正しいクリスチャンであると信じている人がいます。そういう人の前でわざわざその人の生き方を踏みにじる振る舞いをすることが正しいことかどうか、その答えは明らかです。聖書は誰かを躓かせる生き方を決して望んでいません。

 では、教会に集まった全員がお酒を飲むクリスチャンであるならば、礼拝後の食事会にお酒を飲んでも構わないのでしょうか。それでも、わたしには賛成できません。教会にはいつ誰が来るか分かりません。みんなが飲んでいる時に、それを見て躓くような人が絶対に来ないとは言い切れないからです。躓きの岩をわざわざ置く必要もないことでしょう。

 それでは最後の質問に移りますが、日本国憲法と源氏物語と聖書の中でどれが一番貴重な書物なのでしょうか。わたしには、それぞれ次元が違う書物ですので、一概にどれがどれにまさっているかという答えはありません。次元の違うものは比べること自体意味がないように思います。譬えて言えば、靴と教科書と海はどれが大切ですかと聞かれても答えようがないのと同じです。それらは比べようがないからです。

 しかし、もし、自分の手元にこの三冊のうちの一冊だけしか残して置くことが出来ないとしたら、迷わず、わたしは聖書を選ぶだろうと思います。他の人にとってどうかは分かりませんが、わたしにとっては聖書がもっとも大切だからです。

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