教会で祈られる“主の祈り”には、主イエス御自身がお教えになった六つの願いの言葉に、結びの言葉が付いています。これはいったいなぜなのでしょう。また、それにはどのような意味があるのでしょう。
主イエスがこのように祈りなさいとお教えになった“主の祈り”は、マタイとルカによる福音書に記されている全部で六つの願いからなる祈りに基づいています。ところが、この“主の祈り”を祈り続けていた初代教会は、いつ頃からか、これら六つの願いに結びの言葉を付け加えて祈るようになりました(問118-119の解説参照)。おそらく「〜してください」と祈るだけでは何かが足りない、落ち着きが悪いと感じたのでしょう。
ですから、厳密に言えば、この結びの言葉はイエスがお教えになった祈りの言葉ではありません。しかし、主イエスによって祈りを教えていただいた初代教会が、こう祈らずにはおれないと自ら紡ぎ出した言葉ですから、私たちもしっかり学ぶことにしましょう。そもそも、祈りとは、私たちの心から自然にあふれ出す感謝の最も重要な表現なのですから(問116)。
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この結びの言葉(〜なればなり)は、何よりも先行する六つの願いの根拠を表しています。信仰問答が、次のように説明しているとおりです。すなわち「わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたこそわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、またそれがおできになるから」だ、と。
「国とちからと栄え」の「国」とは、支配と訳すことのできる言葉です。すなわち、私たちが祈りを捧げる天の御父こそ「わたしたちの王」であり、この世界の主権者であり、支配者であられるということ。また「すべてのことに力ある」全能の神だということです。
とは言え、ただすべてを支配する力ある王というだけでは、祈りが聞き届けられる根拠にはなりません。大切なのは、この方が「すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、またそれがおできになる」全能の父なる神であられるという信仰です(問26-28)。
私たちのように罪深く取るに足らない者たちのために、御自分の御子をさえ惜しまずにくださった方が私たちの父です。どうして御子のみならず万物をもくださらないことがありましょうか(ローマ8:32)。
主の祈りは「み名をあがめさせたまえ」という神への賛美から始まり、
賛美の言葉で締めくくられます。
さらに、この結びの言葉は“主の祈り”全体の究極的な目的をも指し示していると、信仰問答は理解しています。すなわち、私たちがこの祈りを祈るのは「わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に賛美されるため」である、と。
これは正しい理解です。実は『ハイデルベルク信仰問答』における“主の祈り”の解説は、すべて“私たちのため”の祈りという視点から為されていました。神に対する前半三つの願いでさえも、私たちのための願いであると。これはこれで、とても大切な視点です。主イエスが教えてくださった祈りなのですから、この祈りを祈ることで私たちが豊かな益を受けるのは当然のことだからです。
しかし、それにもかかわらず、私たちの祈りは究極的には心を天へと上げるものでなければなりません。自分たちの願いがかなえられればおしまい、というものではない。むしろ、そこまでして私たちを顧みてくださる大いなる神の御名が崇められ、永遠に賛美されること(歴代上29:10以下)。それこそが私たちの祈りのゴールであり、そのような祈りの姿勢に生きることこそが人間本来の姿だからです(問6)。
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主の祈りは「み名をあがめさせたまえ」という神への賛美から始まり、賛美の言葉で締めくくられます。それはちょうど教会で為される礼拝の形に似ています。しかし、この最初の賛美と最後の賛美とは同じではないことを私たちは知っているでしょう。
重い口を開いて神を賛美した私に対して、全能の父なる神がいかに憐み深く、いかに豊かな恵みを惜しみなく注ぎ、いかに深く愛しておられるかを知った時、私たちの心は感謝に満たされます。そして今度は、心からの喜びをもってこの方に賛美を捧げずにはおれなくなるからです。
初代教会は、きっとそのような生き生きとした礼拝と祈りの生活をしていたに違いないと思うのです。彼らのその思いが、このような祈りを結ぶ言葉となって紡ぎ出されたのですから。
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